大東亜戦争における昭和天皇の玉音放送がなされた昭和20年(1945年)8月15日から数えて、本日平成23年(2011年)8月15日は実に66年目にあたります。
8月15日の今日という日は、先の戦争を日本人がそれぞれに想い、考え、平和を祈念する日ですが、日本とモンゴルの絆の深めるためにも、ふたつの大切なことを一人でも多くの人に知ってほしいと思います。
◆◇◆日本とモンゴルの戦争「ノモンハン事件」◆◇◆
1939年、満洲国とモンゴル人民共和国の国境間で、紛争が勃発しました。満洲国には日本軍が、モンゴル人民共和国にはソ連軍がつき、激しく長期にわたる戦闘で、両軍ともに8,000名近い多大な犠牲を出しました。
ノモンハン事件の歴史は、モンゴルでは「ハルハ川戦争」の名前で誰もが知りますが、日本では中高の歴史の授業で語られることもなく、知る人は多くありません。これは、日本の歴史教育の課題です。
また、近代画家の藤田嗣治はノモンハン事件の慰霊のため『哈爾哈河畔之戦闘』(現 東京国立近代美術館蔵)を描きましたが、戦後は戦争賛美に加担した画家として、日本画壇から追放されるという悲劇もありました。

モンゴル国の首都ウランバートルを一望する「ザイサンの丘」の頂上には、ソ連とモンゴルが協力し合い日本軍を撃退したことを記念する、巨大オブジェがあります。ちなみに「ザイサンの丘」はウランバートルの美しい夜景を観ることもできますので、是非モンゴル人の添乗員さんや同伴者と見学されることをおすすめします。
日本とモンゴル国と現在、幸いにも単純な反日プロパガンダとしてノモンハン事件を扱う時代は卒業しました。田中克彦先生をはじめ、日本、モンゴル国、ロシア、中国(内モンゴルを含む)の歴史研究者による共同研究やシンポジウムも行なわれています。
◆◇◆二つのモンゴルと日本の関係◆◇◆

清朝の時代の「外モンゴル」は、ソ連の協力によってモンゴル人民共和国として独立し、その後現在のモンゴル国になりました。「内モンゴル」も日本の協力で独立を目指しましたが、戦後は中国の民族自治区に編入されました。モンゴル国と内モンゴル、二つのモンゴルの歴史にも、先の大戦と日本は深く関係しています。
※写真は、仙台市の善應寺にある、元軍の犠牲者を慰霊したと伝わる燕沢碑を訪れ、当時の霊を慰めるために訪れたデムチュクドンロブの書と、当時を再現した絵です。善應寺蔵。
◆◇◆ソ連に抑留された日本人のモンゴルでの努力◆◇◆
戦後、ソ連は約60万人の日本人抑留者のうち、1万4,000人をモンゴルで強制労働に従事させ、1686名の日本人が亡くなりました。日本人抑留者は、建築物や道路や鉄道などのインフラ建設を行ないました。

モンゴルの首都ウランバートルの中心であるスフバートル広場の周囲は、写真の国会議事堂(2006年3月撮影。チンギス・ハーン宮殿着工間もない頃です。)をはじめ、オペラ劇場や国立大学など、日本人抑留者が建設に携わった公共建築物を見ることができます。それらの建築物はすべて現役の堅牢な造りで、強制労働の中でも日本人たちが一つの手も抜かなかったことを、現代に伝えてくれます。
モンゴル国に限らず、かつてソビエト連邦だったカザフスタンやウズベキスタンなどの中央アジア諸国も、同じように日本人抑留者が建設に従事した建築物や街路が、今なお現役で輝くような美しい姿を見せてくれます。
◆◇◆日本人を慰霊するモンゴルの真心◆◇◆

日本人墓地はウランバートルのダンバダルジャーをはじめ各地にありましたが、その後日本はモンゴルの協力のもとでご遺骨を回収し、慰霊碑を建設しました。写真はモンゴルの北部セレンゲ県にある、元日本人墓地の観音菩薩像です。日本人抑留者を慰霊する観音菩薩は、白いハタグ(聖布)と乳製品で清められ、地元のモンゴル人の皆様に大切にされてきました。
大東亜戦争で、日本はモンゴルとノモンハンで戦いました。戦後はソ連による抑留により、多くの日本人がモンゴルで命を落としました。そしてモンゴルは今なお、二つに分かれています。それでもモンゴルは、日本の友としての絆を大切にしています。8月15日という今日だからこそ、あらためてこのことを深く想い、感謝し、一人でも多くの人に知ってほしいと祈り、ここに記事を掲載させていただきます。
2011年8月15日
みずばしょう
8月15日の今日という日は、先の戦争を日本人がそれぞれに想い、考え、平和を祈念する日ですが、日本とモンゴルの絆の深めるためにも、ふたつの大切なことを一人でも多くの人に知ってほしいと思います。
◆◇◆日本とモンゴルの戦争「ノモンハン事件」◆◇◆
1939年、満洲国とモンゴル人民共和国の国境間で、紛争が勃発しました。満洲国には日本軍が、モンゴル人民共和国にはソ連軍がつき、激しく長期にわたる戦闘で、両軍ともに8,000名近い多大な犠牲を出しました。
ノモンハン事件の歴史は、モンゴルでは「ハルハ川戦争」の名前で誰もが知りますが、日本では中高の歴史の授業で語られることもなく、知る人は多くありません。これは、日本の歴史教育の課題です。
また、近代画家の藤田嗣治はノモンハン事件の慰霊のため『哈爾哈河畔之戦闘』(現 東京国立近代美術館蔵)を描きましたが、戦後は戦争賛美に加担した画家として、日本画壇から追放されるという悲劇もありました。

モンゴル国の首都ウランバートルを一望する「ザイサンの丘」の頂上には、ソ連とモンゴルが協力し合い日本軍を撃退したことを記念する、巨大オブジェがあります。ちなみに「ザイサンの丘」はウランバートルの美しい夜景を観ることもできますので、是非モンゴル人の添乗員さんや同伴者と見学されることをおすすめします。
日本とモンゴル国と現在、幸いにも単純な反日プロパガンダとしてノモンハン事件を扱う時代は卒業しました。田中克彦先生をはじめ、日本、モンゴル国、ロシア、中国(内モンゴルを含む)の歴史研究者による共同研究やシンポジウムも行なわれています。
◆◇◆二つのモンゴルと日本の関係◆◇◆

清朝の時代の「外モンゴル」は、ソ連の協力によってモンゴル人民共和国として独立し、その後現在のモンゴル国になりました。「内モンゴル」も日本の協力で独立を目指しましたが、戦後は中国の民族自治区に編入されました。モンゴル国と内モンゴル、二つのモンゴルの歴史にも、先の大戦と日本は深く関係しています。
※写真は、仙台市の善應寺にある、元軍の犠牲者を慰霊したと伝わる燕沢碑を訪れ、当時の霊を慰めるために訪れたデムチュクドンロブの書と、当時を再現した絵です。善應寺蔵。
◆◇◆ソ連に抑留された日本人のモンゴルでの努力◆◇◆
戦後、ソ連は約60万人の日本人抑留者のうち、1万4,000人をモンゴルで強制労働に従事させ、1686名の日本人が亡くなりました。日本人抑留者は、建築物や道路や鉄道などのインフラ建設を行ないました。

モンゴルの首都ウランバートルの中心であるスフバートル広場の周囲は、写真の国会議事堂(2006年3月撮影。チンギス・ハーン宮殿着工間もない頃です。)をはじめ、オペラ劇場や国立大学など、日本人抑留者が建設に携わった公共建築物を見ることができます。それらの建築物はすべて現役の堅牢な造りで、強制労働の中でも日本人たちが一つの手も抜かなかったことを、現代に伝えてくれます。
モンゴル国に限らず、かつてソビエト連邦だったカザフスタンやウズベキスタンなどの中央アジア諸国も、同じように日本人抑留者が建設に従事した建築物や街路が、今なお現役で輝くような美しい姿を見せてくれます。
◆◇◆日本人を慰霊するモンゴルの真心◆◇◆

日本人墓地はウランバートルのダンバダルジャーをはじめ各地にありましたが、その後日本はモンゴルの協力のもとでご遺骨を回収し、慰霊碑を建設しました。写真はモンゴルの北部セレンゲ県にある、元日本人墓地の観音菩薩像です。日本人抑留者を慰霊する観音菩薩は、白いハタグ(聖布)と乳製品で清められ、地元のモンゴル人の皆様に大切にされてきました。
大東亜戦争で、日本はモンゴルとノモンハンで戦いました。戦後はソ連による抑留により、多くの日本人がモンゴルで命を落としました。そしてモンゴルは今なお、二つに分かれています。それでもモンゴルは、日本の友としての絆を大切にしています。8月15日という今日だからこそ、あらためてこのことを深く想い、感謝し、一人でも多くの人に知ってほしいと祈り、ここに記事を掲載させていただきます。
2011年8月15日
みずばしょう
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