羊と長城
【写真1】楊海英さんの新著「羊と長城」の表紙

 モンゴル人は中国人と共通点が何も無い―。TS・バトバヤル著、芦村京・田中克彦訳「モンゴル現代史」(明石書店)の最初の1ページに書かれている。楊海英著「羊と長城―草原と大地の百年民族誌」(風響社)を読んで、あらためて、このバトバヤルの文章を思った。

 楊さんの「羊と長城」は、国立民族学博物館併設・総合研究大学院大学で1991年から1年間、中国のオルドス高原で実地調査した記録である。オルドス出身のモンゴル人の視点から中国の民族問題、それもモンゴルの民族問題を究明しようとしたという。羊はモンゴルの遊牧文化を象徴する。中国とは「長城以南の国」であり、万里の長城は中国の象徴だ。この羊と長城をキーワードで綴った。

 「羊と長城」は第一章「家路から世界史を体得する」、第二章「中国に吞み込まれたモンゴル人達」と続き、第三十二章「草原に育まれた人類学者と中国が創成した民族主義者」まで膨大な調査記録だ。いずれも、著者がオルドス各地を歩き、実際に見聞きした体験を綴った。

「羊と長城」プロローグの写真
【写真2】「羊と長城」のプロローグに掲載された写真。モンゴルと中国の関係を象徴する1枚のように見える

オルドスのモンゴル人は、チンギス・ハーンを対象とする祭殿を維持し、その祭祀を主宰してきた集団である。本書では、第二十七章「廃れていくモンゴル語教育」に続き、第二十八章「聖主チンギス・ハーンの御前にて」、第二十九章「黄金オルドの祭祀」で、チンギス・ハーンの祭殿「八白宮」など、モンゴル人がどのように親しみ、生活に溶け込んできたかについてルポした。

 調査の中、中国の公安警察が、さまざまな嫌がらせを行うことが記される。儀礼を観察していたら、急にどこからともなく中国人の秘密警察が現れ、撮影を止めるように警告される。「日本のスパイだ」との疑いだ。著者は「私はモンゴル人。ここはモンゴル人の神聖な場所だ」と抗議する。中国側「なぜ日本語でノートを取るのか」。著者「将来、博士論文は日本語で書かなければならない」

やり取りの中、著者は、中国側からカメラのフィルムを外すように言われ、撮影した写真は感光のため、あきらめざるを得なくなった。著者は身柄拘束のおそれもあったが、モンゴル人の機転で逮捕は免れる。

 中国では、偉大な中華民族との言い方をされる。その中にはモンゴルも含まれ、モンゴル建国の英雄チンギス・ハーンは、中国の少数民族とされる。モンゴル人にしたら、耐えられない歴史の捏造になるのだが、モンゴル人の参拝者たちは、中国の治安当局からは常に監視され、侮辱と取り調べの対象となる。

 フランスのナント歴史博物館は2020年秋、チンギス・ハーンとモンゴル帝国の歴史をテーマにした展覧会を企画したが、中国当局が検閲を強化したため、延期したという。中国にとっては、チンギス・ハーンやモンゴル帝国などは都合の悪い言葉なのか。

 著者は634ページに、次のように記した。「この日、私は偉大な祖先、チンギス・ハーンの神聖な祭殿前で完全に覚醒した。中国とは何か。中国人とモンゴル人との民族関係の性質はどうなっているのか。モンゴル人の歴史が中国にどう見られているのか。こうした問題に対する私の基本的な認識はこの日に一気に形成された」
▽森修 もり・しゅう     

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

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