ムンフシュル
【写真】筑波大学について「緑が多く、まるで森の中にいるよう」と話すムンフシュルさん=2022年5月27日、筑波大学中央図書館付近


 「モンゴルでは、外国の支援でさまざまなプロジェクトが実施されているけれど、プロジェクトが終わると、継続されずに終わってしまうことが多い。障害を持つ子どもたちの発達支援について、モンゴル側が自ら継続させていく体制をつくらなければなりません」

 筑波大学人間総合科学研究科の博士課程で障害科学を専攻するモンゴル人、ムンフシュルさんは、穏やかな表情で抱負を語った。

 ムンフシュルさんは33歳。建設会社で働く夫との間に8歳と6歳の子がいる。昨年秋に来日し、研究生を経て、4月から博士課程で学んでいる。日本政府の奨学金を受給している。子どもの世話は夫に任せ「単身赴任」中だ。子の養育は、近くに住む義父も協力してくれているという。

 ムンフシュルさんは、2008年春、弘前大学教育学部に入学し障害児教育を専攻している。4年間、マブチ国際育英財団の奨学金を受給した。2012年に卒業、帰国して、目や耳が不自由な子どものための国立特別幼稚園の教員になった。

 しかし、この施設は、できたばかりなのに、手すりや点字ブロックはなかった。彼女は、自費で手すりを付けた。トイレなどの方角を示す足形もカーペットの上に付けた。

 この幼稚園は5カ月勤めて退職した。園長が別の知的障害児のための学校の校長となり、誘われたのが理由だ。校長から「幼稚園もいいけれど、学校の教員の方がチャンスは広がる」と言われた。周囲の人からも転職を勧められ、特別学校の教員になった。

 2013年9月、モンゴル国立大学教育学部心理学科の修士課程に入学した。当時、モンゴルの大学に障害児教育を行う学科はなかった。仕方なく、一番近い心理学科となった。修士号を得るには4年かかった。結婚、出産のため、ほかの人より年数がかかった。

 この間、修士課程で学びながら、教育学部に新しくできた特別支援教育教員養成課程の非常勤講師や生涯学習学科の非常勤講師を務めた。

 2017年、JICAがモンゴルで実施した「障害児の教育改善プロジェクト」の職員になった。このプロジエクトは2年で終了したが、その後、「フェーズ2」に再び参加。またモンゴル政府がADB(アジア開発銀行)の融資で取り組む「障害者の社会参加の促進及びサービス改善」のプログラムにも参加している。

 当時、JICAのプログラムには、新モンゴル高校のときに日本語教員だった桜井良平さんが参加しており「職員に応募してみませんか」と言われ、受験したら合格した。

 桜井さんは、新モンゴル高校にいたころ、進路指導も担当しており、日本留学を希望する生徒に「何を学びたいか」を記述させていた。ムンフシュルさんは、そのとき、どう書いたらいいのかがわからなかった。そこで「先生、3日間ください」と言って、周囲の意見を聞いてまわった。

 母親は「将来、給料をいっぱいもらえるように、国際経済を勉強したら」と言った。地区の社会福祉サービス職員は「住民の悩み事を聴く仕事はどうか」と言った。

 高校生のとき、ろう学校に本を寄贈するボランティア活動をしていたことを思い出し、ろう学校と盲学校の校長に会ってみた。二人の校長は「目や耳が不自由な子のための専門知識を持った職員がいない。障害児を教える先生になってほしい」と言った。そんなこんなで日本留学の方向性が決まり、弘前大を受験したら合格できた。

 ムンフシュルさんの話を聞いて、進路指導の重要性をあらためて思った。この成績なら、この大学に合格できるという指導ではない。日本留学で何を学ぶか。モンゴルに足りないものは何か。自分なら何ができそうか。そんなことを考えさせる教育だ。

 ムンフシュルさんは、筑波大で「モンゴルにおけるポーテージプログラムの有効性の実証」を研究する。障害児を早期から支援することで、発達の遅れが改善され、社会性も向上し、親や保護者が子の成長に自信を持ち、肯定的に子育てに取り組むことができる社会―。モンゴル国立大教育学部に4年前、新しく特別支援教育学科ができた。ここで、やる気のある教員を養成する仕事につきたいと考えている。



▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。


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