いまのモンゴルと関係無い記事ですが、旧共産主義国のことをよく理解するのに、興味深い記事がありました。
イギリスの高級紙 The Economistにて、「社会主義時代の経験が長い人ほど、嘘をつく」という実験結果が出たという記事がありました。2014年と一昨年の記事ですが、なかなか興味深い内容です。
実は、ロシア語同時通訳者であった米原万里さんの書かれた名著である『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』にて、このタイトルにあるアーニャはルーマニア系ユダヤ人ですが、よく嘘をついていたという記述がありました。当時、ルーマニアは「ルーマニア社会主義共和国」でニコラエ・チャウシェスクの独裁政権の下、共産党員の特権階級の人々は贅沢な暮らしをし、一般庶民は社会主義体制で苦しい生活をおくってギャップがあったのでは、という記述がありました。

↑ニコラエ・チャウシェスクの70歳の誕生日と政治活動55周年を記念して発行された切手(1988年)(Wkipediaより)

↑1986年のルーマニア国内のチャウシェスクのプロパガンダポスター(Wikipediaより)すごく、モンゴルの街並みっぽいです・・・・。そっくりです。ある東ヨーロッパに詳しい商社マンはウランバートルに来て「ポーランドとかチェコにそっくり」といっていました・・・。
実際、モンゴルでも、いまの要職に就いている人々は、民主化したいまでも、共産党の幹部だったり、国の機関についていた人がそのまま残っているのが多いです。ある国家公務員の人と話をしていると、「郊外に別荘があるのはモンゴルでは普通だよ」というのですが、実際モンゴルに住むと彼らが世間とズレた感覚を持っているということがわかったりします。また、いいところ出身でないもの・貧しい人間に対して人格を疑うような吐き捨てるように残酷な言葉を言ってしまう場面もありました。
モンゴルに住んでいたことのあるイエメン系アメリカ人を知っているのですが、金持ち系のモンゴル人が貧しいものに対する冷酷な態度を、彼女は「mentally diseased」とかなり厳しく批判していました。
民主化して自由があるにもかかわらず、そういうところがあります。その辺のもどかしい矛盾を、社会主義時代、チェコスロバキアのソ連学校での回顧に基づき、記述しているのが『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』です。
ペレストロイカ、ベルリンの壁崩壊後20年以上経過したいまでも、社会主義経験が長い人は嘘をつくということがThe Economistの記事でありました。
ところで、モンゴル人は嘘をつきます。
これをいうと、モンゴル人は激怒するでしょう。日本人も、ショーンK(ショーンマクアードル川上)氏、小保方氏、佐村河内氏、佐野研二郎氏など有名人の虚偽にまつわるスキャンダルが巷を賑わせています。クヒオ大佐という稀代の結婚詐欺師もいました。

しかし、外国人の目線からすると、モンゴルでは一般的な生活の中で嘘をつくことに触れることが多いです。
モンゴル語で「嘘」は"худал(ホダル)"で、「嘘をつく」は"худал хэлэх(ホダルヘレフ)"ですが、「商売」は"худалдаа(ホダルダー)"、「商売する」は"худалдах(ホダルダフ)"といいます。偶然かもしれませんが、響きが非常に似ています・・・。商売をするということは、騙すということなのでしょうか。それは推測にすぎず、わかりません。商売をする中国人が人を騙すからそういう言い方をしたのでしょうか。仮説にすぎません。
なぜ、モンゴル人はよく嘘をつくのか?ですが、以下のThe Economistの記事にヒントがあります。拙訳してみたいと思います。
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「 嘘つきな共産主義者」(Lying commies)
人は社会主義に染まれば染まるほど、より悪い行動をとることになる

出所:The Economistより
旧ソビエト時代のジョークにこんなものがある。「資本主義では、人は人を搾取するが、共産主義ではその逆である」と。実は新しい研究によると、ソビエトの社会体制は皮肉ではなく騙すことを奨励した。少なくとも、東ドイツでは共産主義はモラルのだらしなさを含んでいたようであった。
ミュンヘン大学のラーズ・ホーヌフと、アメリカデューク大学のダン・アリエリ、ヒメナ・ガルシア・ラダ、ヘアター・マンは昨年(2013年)に自分の利益のためにドイツ人は嘘をつくかテストを行う実験を行った。250名のベルリンの人々を無作為に選び出し、ゲームの勝つと6ユーロ(8ドル)得ることができるゲームに参加してもらった。
※論文のPDFはここ(The (True) Legacy of Two Really Existing Economic Systems)。
このゲームは極めて簡単なものである。各参加者はサイコロを40回ふるように指示され、一枚の紙に各サイコロの目を記録するものであった。より高い総計はより大きな見返りを得ることになる。サイコロを投げる前に、参加者はサイコロの上面か下面のどちらかの数字を書き出すことにコミットしなければならなかった。しかし、自分が選択した面を誰かに告げなければならないということはなく、それはまず最初にサイコロを振り、最も高い数字の面を選択したかのように振舞うという嘘をつきやすくすることを意味していた。例えば、上面を選択し、サイコロをふり、2が出たとすると、参加者は下面の5の方を選択するすることを主張する動機を持つことになるかもしれない、ということである。
正直な参加者であれば4、5、6のサイコロの目が1、2、3と同様にでることが期待された(※いわゆる「大数の法則」ですね)しかし、それは起こらなかった。提出されたシートは疑わしい高い数字を占める割合が多く、それは多くの参加者が嘘をついていたことを示していた。
ゲームを終了したのちに、 ゲームの参加者は年齢、各年代にドイツのどこに住んでいたかについて質問をする用紙に記入しなければならなかった。この論文筆者らが発見したのは、概して、東ドイツをルーツに持つ人々は、資本主義だった西ドイツの人に比べて2倍もの嘘をついていたことであった。また論文筆者らはベルリンの壁崩壊の前に何回東ドイツに滞在したかに関して着目した。社会主義に染まっている時間が長い参加者ほど、確率的に起こりそうもない大きい数字のサイコロの目を主張する傾向が強かった。
この研究は、社会主義と不誠実さの間に関連の特徴がないことを示している。例えば、東ドイツの相対的な貧しさによるものかもしれない。いつでも、倫理に関わることについては、資本主義のしつけは社会主義のしつけよりも勝っているようである。
イギリスの高級紙 The Economistにて、「社会主義時代の経験が長い人ほど、嘘をつく」という実験結果が出たという記事がありました。2014年と一昨年の記事ですが、なかなか興味深い内容です。
実は、ロシア語同時通訳者であった米原万里さんの書かれた名著である『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』にて、このタイトルにあるアーニャはルーマニア系ユダヤ人ですが、よく嘘をついていたという記述がありました。当時、ルーマニアは「ルーマニア社会主義共和国」でニコラエ・チャウシェスクの独裁政権の下、共産党員の特権階級の人々は贅沢な暮らしをし、一般庶民は社会主義体制で苦しい生活をおくってギャップがあったのでは、という記述がありました。

↑ニコラエ・チャウシェスクの70歳の誕生日と政治活動55周年を記念して発行された切手(1988年)(Wkipediaより)

↑1986年のルーマニア国内のチャウシェスクのプロパガンダポスター(Wikipediaより)すごく、モンゴルの街並みっぽいです・・・・。そっくりです。ある東ヨーロッパに詳しい商社マンはウランバートルに来て「ポーランドとかチェコにそっくり」といっていました・・・。
実際、モンゴルでも、いまの要職に就いている人々は、民主化したいまでも、共産党の幹部だったり、国の機関についていた人がそのまま残っているのが多いです。ある国家公務員の人と話をしていると、「郊外に別荘があるのはモンゴルでは普通だよ」というのですが、実際モンゴルに住むと彼らが世間とズレた感覚を持っているということがわかったりします。また、いいところ出身でないもの・貧しい人間に対して人格を疑うような吐き捨てるように残酷な言葉を言ってしまう場面もありました。
モンゴルに住んでいたことのあるイエメン系アメリカ人を知っているのですが、金持ち系のモンゴル人が貧しいものに対する冷酷な態度を、彼女は「mentally diseased」とかなり厳しく批判していました。
民主化して自由があるにもかかわらず、そういうところがあります。その辺のもどかしい矛盾を、社会主義時代、チェコスロバキアのソ連学校での回顧に基づき、記述しているのが『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』です。
ペレストロイカ、ベルリンの壁崩壊後20年以上経過したいまでも、社会主義経験が長い人は嘘をつくということがThe Economistの記事でありました。
ところで、モンゴル人は嘘をつきます。
これをいうと、モンゴル人は激怒するでしょう。日本人も、ショーンK(ショーンマクアードル川上)氏、小保方氏、佐村河内氏、佐野研二郎氏など有名人の虚偽にまつわるスキャンダルが巷を賑わせています。クヒオ大佐という稀代の結婚詐欺師もいました。

しかし、外国人の目線からすると、モンゴルでは一般的な生活の中で嘘をつくことに触れることが多いです。
モンゴル語で「嘘」は"худал(ホダル)"で、「嘘をつく」は"худал хэлэх(ホダルヘレフ)"ですが、「商売」は"худалдаа(ホダルダー)"、「商売する」は"худалдах(ホダルダフ)"といいます。偶然かもしれませんが、響きが非常に似ています・・・。商売をするということは、騙すということなのでしょうか。それは推測にすぎず、わかりません。商売をする中国人が人を騙すからそういう言い方をしたのでしょうか。仮説にすぎません。
なぜ、モンゴル人はよく嘘をつくのか?ですが、以下のThe Economistの記事にヒントがあります。拙訳してみたいと思います。
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「 嘘つきな共産主義者」(Lying commies)
人は社会主義に染まれば染まるほど、より悪い行動をとることになる

出所:The Economistより
旧ソビエト時代のジョークにこんなものがある。「資本主義では、人は人を搾取するが、共産主義ではその逆である」と。実は新しい研究によると、ソビエトの社会体制は皮肉ではなく騙すことを奨励した。少なくとも、東ドイツでは共産主義はモラルのだらしなさを含んでいたようであった。
ミュンヘン大学のラーズ・ホーヌフと、アメリカデューク大学のダン・アリエリ、ヒメナ・ガルシア・ラダ、ヘアター・マンは昨年(2013年)に自分の利益のためにドイツ人は嘘をつくかテストを行う実験を行った。250名のベルリンの人々を無作為に選び出し、ゲームの勝つと6ユーロ(8ドル)得ることができるゲームに参加してもらった。
※論文のPDFはここ(The (True) Legacy of Two Really Existing Economic Systems)。
このゲームは極めて簡単なものである。各参加者はサイコロを40回ふるように指示され、一枚の紙に各サイコロの目を記録するものであった。より高い総計はより大きな見返りを得ることになる。サイコロを投げる前に、参加者はサイコロの上面か下面のどちらかの数字を書き出すことにコミットしなければならなかった。しかし、自分が選択した面を誰かに告げなければならないということはなく、それはまず最初にサイコロを振り、最も高い数字の面を選択したかのように振舞うという嘘をつきやすくすることを意味していた。例えば、上面を選択し、サイコロをふり、2が出たとすると、参加者は下面の5の方を選択するすることを主張する動機を持つことになるかもしれない、ということである。
正直な参加者であれば4、5、6のサイコロの目が1、2、3と同様にでることが期待された(※いわゆる「大数の法則」ですね)しかし、それは起こらなかった。提出されたシートは疑わしい高い数字を占める割合が多く、それは多くの参加者が嘘をついていたことを示していた。
ゲームを終了したのちに、 ゲームの参加者は年齢、各年代にドイツのどこに住んでいたかについて質問をする用紙に記入しなければならなかった。この論文筆者らが発見したのは、概して、東ドイツをルーツに持つ人々は、資本主義だった西ドイツの人に比べて2倍もの嘘をついていたことであった。また論文筆者らはベルリンの壁崩壊の前に何回東ドイツに滞在したかに関して着目した。社会主義に染まっている時間が長い参加者ほど、確率的に起こりそうもない大きい数字のサイコロの目を主張する傾向が強かった。
この研究は、社会主義と不誠実さの間に関連の特徴がないことを示している。例えば、東ドイツの相対的な貧しさによるものかもしれない。いつでも、倫理に関わることについては、資本主義のしつけは社会主義のしつけよりも勝っているようである。
(以上、拙訳)
〜意見〜
実はこの記事をモンゴル語の先生に紹介したことがあります。これ、なんでこんなことが起こるんですか?とモンゴル語の先生に聞いたところ、「私たちの時代(1980年代ぐらい)は手に入る物が限られていた。配給制だった。欲望が抑えられていて、それが資本主義になって欲望の制限が効かなくなったからではないか?」とのことです。
社会主義が崩壊した直後の国営デパート(現ノミンデパート)では、塩しか売っていなく、物を手にれるのに本当に苦労したという話を30後半、40代のモンゴル人から聞きました。
しかし、欲望の制限でなく、嘘に至るプロセスは実は別の面でもあって、社会主義そのものが大きな矛盾を抱えていて、その現実を直視できなかったという実態があったのでは?と思えるところです。
社会主義というのは、平等を目指すはずの体制ですが、贅沢なくらしをする特権階級の人間との格差が強く残り、欺瞞や嫉妬や怨嗟があり、理想とかけ離れた世界になってしまい、それで嘘をつかざるを得ないその様子は、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』に色濃く書かれています。
〜意見〜
実はこの記事をモンゴル語の先生に紹介したことがあります。これ、なんでこんなことが起こるんですか?とモンゴル語の先生に聞いたところ、「私たちの時代(1980年代ぐらい)は手に入る物が限られていた。配給制だった。欲望が抑えられていて、それが資本主義になって欲望の制限が効かなくなったからではないか?」とのことです。
社会主義が崩壊した直後の国営デパート(現ノミンデパート)では、塩しか売っていなく、物を手にれるのに本当に苦労したという話を30後半、40代のモンゴル人から聞きました。
しかし、欲望の制限でなく、嘘に至るプロセスは実は別の面でもあって、社会主義そのものが大きな矛盾を抱えていて、その現実を直視できなかったという実態があったのでは?と思えるところです。
社会主義というのは、平等を目指すはずの体制ですが、贅沢なくらしをする特権階級の人間との格差が強く残り、欺瞞や嫉妬や怨嗟があり、理想とかけ離れた世界になってしまい、それで嘘をつかざるを得ないその様子は、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』に色濃く書かれています。
「誰もがイッパシの愛国者だったソビエト学校に通ううちに、大きな国より小さな国、強い国より弱い国から来た子供の方が、母国を思う情熱が激しいことに気付いた。アメリカ人よりもプエルト・リコ人の方が、自国に対する侮辱に敏感なのだった。自分こそが国を代表しているという悲壮感が強いのである。
国が小さい分、その国に占める自分の割合が大きく、自分の存在によってその国の運命が左右される度合いが少しでもたかそうな気がする方が、思い入れが強くなるのだろうか。(p.125)」
「『チャウシェスクは妻だけでなくドラ息子までも国の幹部に取り立てているが、その息子は病的な外車マニアで、女漁りに明け暮れている。何度も酒を飲み運転でひき逃げ事故を起こしているんだ。もちろん、もみけされるが。』浮かび上がってくるルーマニアという国は、決して幸せな国でなかった。アーニャ自身は、どうやら例外的特権階級的に幸せな人生を歩んでいるらしいが、そこに矛盾を感じないのだろうか。私の知る少女時代のアーニャは、自分の父親と、父親の属するルーマニア現政権に心から信服していた様子だったし、周囲もそれにウンザリするほど執拗に説いた。すでに分別が備わる年齢に達した今も、そうなのだろうか。平気で特権を享受し続けられるほど鈍いのだろうか。そんなアーニャを想像するのは嫌だった。(p.138)」「『1989年のチャウシェスク政権転覆後は、その労働者党のお偉い方は、ここから追い出されなかったの?』『ぜーんぜん。今も彼らは、あなたのこれから訪ねるザハレスク同様、昔通りの特権を享受していますよ。それどころか、かつて国の財産だったものをドサクサまぎれに私物化し、市場経済の時流に乗っかって甘い汁を吸っています。甘い汁を吸い慣れた連中は、敏感なんですね。うまい話に。それに、人を蹴落としたり、人を踏み台にするのは、連中の得意中の得意技ですからね』( p.143)」
「『マリ、国境なんて21世紀には無くなるのよ。私の中で、ルーマニアはもう10パーセントも占めてないの。90パーセント以上イギリス人だと思っている』
さらりとアーニャは言ってのけた。ショックのあまり、私は言葉を失った。ブカレストで出逢った、瓦礫の中でゴミを漁る親子を思い出した。虚ろな目をした人々の姿が寄せては返す波のように浮かんでくる。(p.186)」
いまモンゴル国立大学の学生寮あたりでも、治安が悪いと聞き、実際、筆者もそのあたりでゴミをあさる浮浪者と目があってしまい殴りかかられかけたことがあります。ある留学生に聞いた話、ラオス人の留学生がボコボコに殴られ、血だらけになったという事件があった、と聞きます。モンゴル国立大学の寮周辺はゲル地区に比較的近いこともあり、狙われやすいところであると聞きます。
なぜ学生寮あたりが狙われやすいかというと、大学生が特権階級の象徴であるからだと思います。それに乗れない者の怨嗟の眼差しがあるのかと思います。
モンゴルは素晴らしい国だ、というのはイデオロギーの面で見ると、そうも言えない、という厳しい現実があります。なので、嘘をつくことが起こりうるのではないか、と思いました。
ここまで書くと、なんかお前、モンゴルに深い恨みがあるのか?と言われそうですが、これは実はモンゴルだけでなく、ルーマニアやハンガリーなどの旧社会主義国全般に言える特徴ではないか、と思うのです。
モンゴルに深く入り込んで、ビジネス行ったり文化を知る上で、影の部分を理解しなくても知っておく必要はあるかと思います。そこで、「複雑化」が起こり、自分の先入観に疑問を投げかけ、新しい問いが生まれるかと思われます。
嘘の話をしましたが、「なぜモンゴルは他のものを欲しがるのか」という問いに関して、機会があれば書きたいと思います。その問いの大きなヒントに、梅棹忠夫先生の『文明の生態史観』が挙げられます。それを読むと、すっと理解できます。
今回はここまで。
なぜ学生寮あたりが狙われやすいかというと、大学生が特権階級の象徴であるからだと思います。それに乗れない者の怨嗟の眼差しがあるのかと思います。
モンゴルは素晴らしい国だ、というのはイデオロギーの面で見ると、そうも言えない、という厳しい現実があります。なので、嘘をつくことが起こりうるのではないか、と思いました。
ここまで書くと、なんかお前、モンゴルに深い恨みがあるのか?と言われそうですが、これは実はモンゴルだけでなく、ルーマニアやハンガリーなどの旧社会主義国全般に言える特徴ではないか、と思うのです。
モンゴルに深く入り込んで、ビジネス行ったり文化を知る上で、影の部分を理解しなくても知っておく必要はあるかと思います。そこで、「複雑化」が起こり、自分の先入観に疑問を投げかけ、新しい問いが生まれるかと思われます。
嘘の話をしましたが、「なぜモンゴルは他のものを欲しがるのか」という問いに関して、機会があれば書きたいと思います。その問いの大きなヒントに、梅棹忠夫先生の『文明の生態史観』が挙げられます。それを読むと、すっと理解できます。
今回はここまで。
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