こんにちは、ひでです。このところ本業のほうが忙しく本当にご無沙汰しておりました。
今回は、近代日本の文豪達とモンゴルとのかかわりを書いてみたいと思います。
戦前(1945年以前)既にモンゴルを訪れた事のある方、或いはモンゴルに関心が深かった方を取り上げてみたいと思います。近代日本においては、残念ながらモンゴルに特化した関心は低かった(義経伝説は除く)と思います。が、全く関心がなかった訳ではありません。今回、その一旦を垣間見て頂ければ幸いです。
故郷、茨城県北茨城市にある野口雨情記念館前の野口雨情像
◎野口雨情
「シャボン玉」や「七つの子」で有名な茨城県出身の作家、野口雨情は大正13年(1924年)の段階で既にモンゴル(満蒙)旅行に出かけております(満鉄の招聘)。場所は現在の内モンゴル辺りだそうです。
丁度このころ、彼は千葉県の民謡『證誠寺のたぬき囃子』の作詞中でした。一緒に仕事を行ってきた作曲家の中山晋平が、いつまで経っても雨情がモンゴルから帰国しないのに業を煮やし、締め切に間に合わせる為に止む無く雨情の作詞を勝手に修正して歌を発表するという珍事があり、後に雨情が怒ったというエピソードがあります(結局、この時発表された曲が現在出回っている『證城寺の狸囃子』なのです・・・)
◎与謝野晶子
日露戦争に出征した弟に向けて詠んだ『君死にたまふことなかれ』で有名な与謝野晶子もやはり満鉄の招聘で昭和3年(1928年)にモンゴルを訪れています。この際に晶子は『満蒙遊記』という旅行記を出版しています。
司馬遼太郎の出身校、大阪大学
◎司馬遼太郎
『モンゴル紀行』で有名な司馬遼太郎は旧大阪外国語学校蒙古語学科(現:大阪大学外国語学部)を専攻しています。戦時中は満州四平の戦車学校に配属されています。四平は現在の中国吉林省にある「中国のマドリード」とも呼ばれる新興工業地域であり、モンゴル人も多く住んでいる街です。
また司馬は晩年、ノモンハン事件の作品化を構想していたといわれていますが、彼の死で実現しませんでした。
他にも、モンゴルと縁の深い作家は多数います。次回からは個別に、日本人作家がどのようにモンゴルと関わってきたのかを中心に紹介してゆきたいと思います。
寄稿者:ひで
コメント