皆様、こんにちは、ひでです。
前回「クリミア・タタールの「タタール」はモンゴル?」と題して寄稿させて頂きました。
結論としては、
タタール≠モンゴル人であり、かつ、タタール人≒モンゴル人でもある。
北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な民族を指す語として、そして様々な人々によって用いられてきた民族名称。
となりました。しかし、ではそもそも「タタール」という呼称はどこから誕生したのか?という疑問にはまだ答えていませんでした。
ホショ・ツァイダム碑文(オルホン碑文)
◎三十姓タタルと九姓タタル
今から1600年以上前、現在の中国・内モンゴル自治区東部を流れるシラムレン川(モンゴル語で”黄色い川”。中国人は黄河と区別する為に漢字では『吐護真水』などと記載したそうです)流域にある遊牧民が住んでいました。彼らこそ、「オトゥズ・タタル(Otuz Tatar)」ないしは「三十姓タタル」と呼ばれているモンゴル人の源流民族です。
これは突厥帝国(552〜582)時代に建立されたホショ・ツァイダム碑文(オルホン碑文)に、「バイカル湖の東岸方面のクリカン(骨利幹)とシラムレン川のキタン(契丹)の間に、オトゥズ・タタル(三十姓タタル)がいた」とあることからその存在が分かります。中国王朝側からは「室韋(しつい)」と呼ばれている民族です。『隋書』『新唐書』
5世紀頃の東アジア諸国。室韋(失韋)の名前が柔然と高句麗の間辺りにあるのが解る。
彼らは鮮卑人の子孫とも呼ばれているそうです。
恐らく「タタール」という民族名はこの「三十姓タタル(オトゥズ・タタル(Otuz Tatar))」が発祥ではないでしょうか?
では、もう一方の「九姓タタル」とはどのようの存在でしょうか?
ウイグル帝国時代に建立された碑文「シネ・ウス碑文(突厥文字で刻まれている)」のなかに「トクズ・タタル(九姓タタル)」という集団がモンゴル北部のセレンゲ川下流近くに居住していたことが記載されています。彼らもタタールの民族名を背負っています。
九姓タタルの故郷、セレンゲ川。
◎「モンゴル」の誕生
モンゴル帝国誕生以前、ユーラシア大陸には数多くの遊牧民の部族が存在しました。三十姓タタル、九姓タタルもやはりそのなかの一つにあてはまるでしょう。そして、三十姓タタルの部族のなかに「蒙兀室韋(蒙瓦部とも)」という部族がいました。この「蒙兀室韋」こそ、のちのモンゴル民族の祖先なのです。それから何百年という時を得て、チンジスハーンが誕生するのです。
蒙兀室韋ソム(ソムとはモンゴル国、及び内モンゴルにおけるモンゴル人の自治単位)のある内モンゴル、ホロンバイル市
従って「モンゴル」は「タタール」のなかから誕生した。故に「タタール」は「モンゴル」だけではない。と言えるのではないでしょうか?
参考文献:
森田雄蔵『モンゴル国ものがたり−神話と伝説と挿話と−』(文元社, 2004年2月)
岡田英弘『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』 (筑摩書房[ちくまライブラリー] 1992年/ちくま文庫 1999年)
(寄稿者:ひで)
コメント
コメント一覧 (2)
今回、とても貴重なご意見、ご指摘ありがとうございます。
「タタル」という民族名は本当に色々な使い方があるので、今回は私なりに歴史検証に一週間程度かけさせて頂きました。結果、古代遊牧民族である「三十姓タタル(室韋)」から発生している可能性があるのでは?という考え方をもとにして、今回寄稿させて頂きました。「タタル」の呼称自体はやはり突厥のチュルク人からみて「余所の人」という事だと思います。なので、オルホン碑文には「三十姓タタル」と記載されている?という事でしょうかね。
「モンゴル人自体はトルコ人の派生」とは「トルコ人=三十姓タタル」という前提なら、確かにそうだと思います。文字通り三十余りの部族から「モンゴル部(蒙兀室韋)」がルーツなのでしょうから。