皆様こんにちは、ひでです。

先週まで、フビライ・ハーンが「元朝」を建国した経緯までをお伝えしましたが、今回は一応「大都」最終回という事で、モンゴル帝国が建設した壮大なる都「大都」の街づくりについて書きたいと思います。
大都の呼び方としては、音訳で「ダイドゥ」や、モンゴル語やチュルク語で「ハーンの都」を意味する「ハンバリク」(Khān Bālīq / Qan-baliq)などとも呼ばれています。(東方見聞録で有名なマルコ・ポーロは大都の事を「ハンバリク」から訛った「カンバルク」( Cambaluc )」という呼び名で呼んでいる)
1271年に国号が大元(元)に改められ、元々「燕京」と呼ばれていた中国北方の街も「大都」と改称されました。
これによりフビライの国家、大元ウルス(ウルスとはモンゴル語で’国家’の事)では、大都は冬の宿営地と定め、夏の宿営地の上都(現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)とならんで、モンゴルという世界帝国の首都として位置づけられ、また貿易、通商を重視したフビライのもとで、全モンゴルウルスの宗主的存在、かつ経済的中心として著しく発展しました。
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大都の全景。現在の北京の西直門〜東直門ラインよりさらに北部まで城壁(外城)があった事がわかる。この外城は周囲28キロ強に達し、フビライが没する直前の1293年にかけて建設された。

大都の街づくりの理念としては、儒教の経典「周礼」に記された王都の理想系(南には宮殿と官庁街、北には市場が置かれる「面朝后市」)に忠実に作られました。

「周礼」を編纂した周公旦。周は殷を倒した古代中国の中心的な王朝とされる。春秋戦国時代でも、周王は他の国家から「象徴」として崇められていた。
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こうした都は、実はそれまでの歴代の漢人王朝では一度も作られたことがなく、モンゴル人が史上初めて実現させたものでなのです!
大都はこのように、純然たる計画都市として設計されたため、極めて整然とした構成美を持っているのです。

大都は、地勢上モンゴルの遊牧世界と中国の農耕世界の接点となったばかりでなく、都市内港から通恵河などの運河を介して外海ともつながり、内陸・海洋のネットワークが充実、以前の統一中国の首都と一線を画した世界帝国の中心に相応しい都として建設されたのです。
マルコ・ポーロが絶賛したのも、これでうなづけると思いませんか?

マルコ・ポーロ肖像
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こうしてフビライが建設したモンゴルウルスの首都、大都はその後100年近くに渡り「パックス・モンゴリカ」の中心的存在として、中国、中央アジア、ロシア、西アジア(中東)等のユーラシア世界に君臨したのです。
まさに、モンゴル帝国が残した「至宝」ともいうべき存在ではないでしょうか?
(寄稿者:ひで)

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