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草はら
【写真】ミンガド・ボラグ著「草はらに葬られた『日本特務』―日本人による『内モンゴル工作』とモンゴル人による『対日協力』の光と影」(関西学院大学出版会)の表紙

 中国の内モンゴル自治区から日本に来たモンゴル人と話したことがある。モンゴルが北と南に分かれた原因は何だと思うか、私が尋ねたところ、「日本がモンゴルに中途半端にかかわったからですよ」と言われた。

 ミンガド・ボラグ著「草はらに葬られた『日本特務』―日本人による『内モンゴル工作』とモンゴル人による『対日協力』の光と影」(関西学院大学出版会)を読んで、あらためて、その人が話した意味がわかった。

 著者は内モンゴル出身のモンゴル人。本書は、著者の子どものころの体験を基に、著者の家族や関係者に聞き書きしたことをまとめたものである。主に1930年代から60年代、満洲事変から中国の文化大革命のころにかけて、内モンゴルのモンゴル人が、日本人、中国人(漢人)、ロシア人などの間でもみくちゃにされ、肉体的、精神的に大きな打撃をこうむった歴史を振り返っている。

 「日本特務」とは、旧日本軍の特務機関で、現地の情勢を探るとともに、日本の立ち位置を現地の人々に広報する特別の任務を持っていた。モンゴル人も多数参加しており、文化大革命のときは、「日本帝国の走狗」「日本刀をぶら下げたやつら」として、真っ先につるし上げられた。

 本書には、謎に包まれた羊飼いの老人バートルが紹介されている。バートルは、日本語を学び、関東軍の諜報員として、今でいえば高級車に当たる自転車を乗り回す羽振りの良い生活を送っていたが、地雷に触れて片手を失ってからは、反日家に転向し、お陰で文化大革命の荒波からは逃れることができた。その後、過去を隠しながら羊飼いとなり、晩年は飲んだくれの人生を歩みながら「日本がもう一度助けてくれる」ことを妄想する…。

 聞き書きなので、ノンフィクションだ。しかし、私には、まるで映画の一場面のように思えてくる。そんな波乱万丈のモンゴル人が何人も登場する。

 著者は、自らの体験も語っている。モンゴルのことを知りたいという日本人からの電話に出たときのことだ。「私は内モンゴルから来た…」と自己紹介が終わらないうち、向こうから「内モンゴル人ということは、つまり中国人だね。なら会わなくて結構」と言われ、一瞬凍りついたという。

 私は、似たような逆のケースを聞いたことがある。モンゴル国(外モンゴル)から日本に来たモンゴル人留学生は、日本人から「モンゴル人ですか。それなら中国語はわかりますね」と言われたという。日本人の中には、モンゴルと中国の区別がつかない人が多い。

 日本は、日清戦争や日露戦争に勝ち、大陸進出を開始した。そのころ、内モンゴルでは、古来からの遊牧民(モンゴル人)と無断入植の中国人(漢人)の対立が目立ち始めていた。モンゴル人は、日本に協力することで日本語を覚え、教育の機会を得た。特に特務機関による軍事教育を受けたモンゴル人は、強力な武装組織になった。しかし、日本が米国との戦争に負けたことにより、急速にしぼんでしまう。それどころか、文化大革命では、モンゴル人の「対日協力者」は狙い撃ちにされ、多数が殺されてしまう。

 モンゴルが南北に分断されたのは、もちろん、日本のせいではない。米国、英国、ソ連の3国が、第二次世界大戦が終了した後の利害を調整したヤルタ協定(1945年2月)の結果だと思う。

 しかし、この本は、日本や日本人を批判する記述がある一方、行間には、日本に向けた切実な願望もにじんでいる。チベットやウイグルで起きているような問題は、内モンゴルにもある。日本は、旧宗主国の責任として、内モンゴルのモンゴル人の権利や伝統文化を守るために、もっと国際責任を果たしてほしい―と訴えているように私は感じた。

▽森修 もり・しゅう 
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
草はらに葬られた記憶「日本特務」
ミンガド・ボラグ
関西学院大学出版会
2019-10-10


UBの都市環境
【写真】モンゴルの都市環境の変容をテーマにしたシンポジウムのパンフレット

 ウランバートルはモンゴルではありません―。モンゴル国立大のバトフー教授の言葉だ。モンゴルを知るには、田舎に行かないと駄目だという意味なのだが、東北大で開かれた「モンゴルの都市環境:変容の諸相」と題したシンポジウムを傍聴して、バトフー教授が言ったことを思い出した。教授はオブス県出身の薬草研究者。モンゴルの田舎と都市の落差を肌で感じている一人だと思う。

 シンポジウムは12月14、15日に開かれた。私は初日を傍聴した。モンゴルは遊牧民の国と言われる。しかし、現代のモンゴルは、定着民としての姿が大きくなっている。人口323万人のうち、220万人が都市部で暮らしている。特にウランバートルには150万人が住んでおり、交通渋滞、大気汚染などの問題が深刻化している。

 東北大東北アジア研究センターの岡洋樹教授らは、数年前から、文化人類学、建築学、心理学、地理学、歴史学、都市計画などの研究者や実務家と一緒に「都市としてのモンゴル」の研究を進めている。特にウランバートルのゲル地区が、どのように変容しているかについて、さまざまな角度から迫っている。今回のシンポジウムは、その流れの中で開かれた。

 モンゴルの人口の都市集中は、社会主義から自由主義へ世の中の体制が変わったことが大きい。貧富の格差が広がり、貧困層が職を求めて都市に流れ込んだ。ゾドと呼ばれる自然災害が拍車をかけた。2002年の土地私有化法で、だれでも無償で土地を得ることができるようになったことでも都市への移住が進んだ。

 東京工芸大の八尾廣教授は、「遊牧から定住へ ウランバートルのゲル地区と社会主義時代のアパートに見る定住文化の萌芽」と題して発表した。

 八尾教授は、建築学の立場から、ゲル地区を快適な住宅地に変えるための方策について研究している。ゲル地区の住宅を訪ね、住民の聞き取り調査を行うとともに建物の間取りや屋根、壁、床の構造などを調べている。

 その結果、ハシヤー(柵)内で野菜を作り、木を植え、庭造りを行う住民がおり、中には近隣住民と協力して、ハシャーを取り払い、土地を広く利用したり、歩道に花壇やベンチを設けている事例があることも分かった。

 八尾教授は「住環境を改善しようとする意識の高い住民が増えており、コミュニティー意識が芽生えている」と分析している。一方、建築士の立場から「バイシン(固定家屋)の断熱に関する知識が不足している」とも指摘している。

 自然に囲まれた遊牧生活から、都市での定着した生活へ―。この流れは、だれにも止められない。昔の生活に戻れとも言えないだろう。しかし、それにしても、と私は思ってしまう。

 私は今年10月に訪モしたとき、帰りの飛行機で宮城県石巻市の女性と一緒になり、少しばかり立ち話をした。その人は、旅行会社の企画に参加した初めてのモンゴルだった。私は感想を聞いた。「本当は羊を見たかったんだけど…、見れなかった」との言葉が返ってきた。

 その人は元農家で、昔、自分でも羊を飼っていたという。そこで、いつか羊が群れるモンゴルに行ってみたいと思うようになり、今回、ツアーに応募したのだが、希望はかなわなかった。

 私は、「田舎に行けば、羊、牛、馬、ヤギ、ラクダの五畜と呼ばれる動物がいっぱい見られますよ」と説明したのだが、そう言う私自身、バトフー教授の言葉が胸にひっかかったままだった。

▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

2016-12-25-18-18-13
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毎度、編集長のタケシです。
昨日は、在日モンゴル人親善会に参加してきました。知り合いのEngketubsin(蒼国来関)にも久々に会えました。どうやら電話番号を変えたらしく、モンゴルスタンプを再インストールしてくれと言われ、早速対応しました。かなりお気に入りのようで、なんようり嬉しかったです。

みんなでチンギスハーンの像に挨拶をしてから宴会が始まった。
ちょっと妙な感じでした。モンゴル人親善会なのに、なぜか中国語ばかり歌うモンゴル人何人もいた。純正なモンゴル語を話せないことに理解できるけれども、わざわざ中国語で歌わなくていいのでは?強制じゃないんだから。自ら自分の言葉・文化・伝統を守らなければ最後は消えてゆき、パンダ扱いされる時代、そう遠くはないだろうなぁ。

身近なところで、既に統化さた人たちを見ると本当に心が痛みます。


 


毎度、編集長のタケシです。
楊海英先生の新しい本『日本陸軍とモンゴル』、副題は「興安軍官学校の知られざる戦い」が昨年発売されました。

内容紹介
一九三〇年代に満洲の地で、日本陸軍が関与し、モンゴル人へ軍事教育を施す目的で作られた興安軍官学校。
日本の野心と中国からの独立を目論むモンゴルの戦略が交錯する中から生まれた場所だ。
本書は軍事力により民族自決をめざすモンゴル人ジョンジョールジャブや徳王らの活動、
軍官学校生らが直面したノモンハン戦争から敗戦にいたる満蒙の動向などを描く。
帝国日本に支援され、モンゴル草原を疾駆した人びとの物語。

<目次>
序章 軍人民族主義者とは何か
第1章 騎兵の先駆と可愛い民族主義者
第2章 民族の青春と興安軍官学校
第3章 植民地内の民族主義者集団
第4章 興安軍官学校生たちのノモンハン
第5章 「チンギス・ハーン」のモンゴル軍幼年学校
第6章 「草原の二・二六事件」と興安軍官学校の壊滅
終章 「満蒙」残夢と興安軍官学校生の生き方

参加

岩間陽子・評 『日本陸軍とモンゴル』=楊海英・著
http://mainichi.jp/articles/20160110/ddm/015/070/072000c

『日本陸軍とモンゴル』 楊海英著
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20151222-OYT8T50101.html

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