モンゴル情報クローズアップ!

モンゴルの文化、ビジネス、投資、観光、最新話題など幅広い情報をお届けします。(通称:モンゴルなう)

タグ:森修

ウズベキスタン
【写真】嶌信彦著「伝説となった日本兵捕虜」(角川新書)と胡口靖夫著「ウズベキスタン『ナボイ劇場』建設の真実」(同時代社)の表紙

 嶌信彦著「伝説となった日本兵捕虜―ソ連四大劇場を建てた男たち」(角川新書)を読んだ。いわゆるシベリア抑留の日本人の中に、中央アジアのウズベキスタンまで強制連行された人たちがいて、「ナボイ劇場」という豪華な施設を建設したことが地元で評価され、伝説になっているという話だ。

 これを読んで、私は、モンゴルにも似た話があるのになあ―と思った。ソ連は対日戦で60万人の日本軍捕虜を獲得した。これがシベリア抑留だ。このうち1万2318人がソ連からモンゴルに引き渡され、ウランバートルなど16カ所に分けられ、都市建設やトーラ川沿いの樹木伐採などに駆り立てた。

 現在のウランバートル・スフバートル広場周辺の建物や道路は、この「モンゴル抑留」の日本人が建設に当たった。中央政庁舎、国立大学、オペラ劇場、中央図書館など中心部の景観を構成する主な建物は皆、日本人が工事に当たったと言われる。

 ウズベキスタンの抑留者については、胡口靖夫著「ウズベキスタン『ナボイ劇場』建設の真実―続・シルクロード<青の都>に暮らす」(同時代社)も読んだ。

 嶌さんの著書では、ナボイ劇場は、1966年の大地震に遭っても、さほどの被害を受けず、それが地元では「日本人は捕虜でも、いいかげんな仕事はしない」との評価につながっていることを紹介している。

 一方、胡口さんによると、ナボイ劇場は、旧ソ連が設計・着工し、戦争で中断したものを、戦後、日本人が最後の仕上げを行っただけなのだという。日本人が特に立派な仕事をしたわけではない―として、胡口さんは、嶌さんを「時流に迎合した日本人礼賛論」と痛烈に批判している。

 しかし、嶌さんの著書にも、最後の仕上げを行ったことは書かれている。この本では、たとえ仕上げ工事であっても、地元の人々に評価され、それが一つの伝説になっていることに力点が置かれている。強制連行、強制労働という負の遺産を、ウズベキスタンと日本との友好関係に結び付け、前向きにとらえて描いている。

 一方、モンゴルでも、日本人がスフバートル広場周辺の建設工事に当たった。強制労働の期間は、モンゴルもウズベキスタンも1945年から47年までの2年程度だ。しかし、モンゴルでは、建物の土台や道路造りに従事しただけなのに対して、ウズベキスタンでは最後の仕上げ工事を担当した。基礎工事だけなのと、建物の完成とでは、大きな違いがある。

 また、嶌さんの著書では、捕虜という苦難の生活の中にあっても、日本人が一致団結して工事に当たったことが紹介されているし、地元民との交流の様子も描かれている。

 一方、モンゴル抑留を描いた本では、胡桃沢耕史の小説「黒パン俘虜記」(文春文庫)がある。飢えと寒さの極限状態の人間模様を、すさまじいタッチで描いた小説だ。小説とノンフィクションの違いかもしれないが、嶌さんの著書とは、読んだときの印象が大きく異なる。

 確かに、強制連行、強制労働の中で、多くの死者を出した苦難の歴史は、しっかりと記憶にとどめなければならないと思う。しかし、抑留から70年以上が経過している。

 モンゴル人の中には、スフバートル広場周辺の街づくりに、日本人が関係したことを知っている人は結構多い。中には、「捕虜の日本人が、しっかりと仕事をしたことで、現在のウランバートルの街の景観が出来上がった」との評価もあるのではないか。

 私は、昨年10月に訪モした際、ゲル地区の住民ウルジートクトフさんが、採石場の跡地を「ノゴーンノール(緑湖)」という公園にしたことを取材した。ここでは、日本人捕虜が、銃の監視の下、石を切り出し、スフバートル広場周辺の道路建設などに当たったという。

 ウルジートクトフさんは、採石場の跡地に雨水がたまり、ごみ捨て場となっている現状を憂え、個人の力で公園に変えた。そのことが市民の間で評判となり、周辺の植樹に協力する人も出てきたという。

 それだけではない。ウルジートクトフさんは、「日本人がウランバートルの中心街をつくったことを、もっと多くの人に知ってもらいたい」と資料館の計画を進めている。彼は、日本人が、建設工事を行っている当時の記録映像や写真をパソコンに収録中だ。私は、その一部を見せてもらった。

 ウランバートルでは今、自然史博物館など古い建物の取り壊しが進行中だ。市民の間には「せっかくの建物を壊すのは惜しい」との声が出ているようだ。中心部の街づくりが、どのように行われたのか、もう一度振り返ってみることが必要なのではないか。日本人も街づくりに関係している。モンゴル抑留は、日本人にとっては悲しい歴史である。しかし、それだけで終わらせては、ならないと考える。モンゴルと日本との友好関係のきっかけにもなっていることを、もっと多くの日本人に知ってもらいたい。



▽森修 もり・しゅう 
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

堺さんの本
【写真】堺六郎著「シベリアのラーゲリを逃れて―ホロンバイルからシベリアへ」(筑摩書
房)の表紙

 娘が立って行って十能のようなものに牛糞の燠(おき)を置き、その上に香を振りかけて各人に廻してよこした…蒙古の奥地で埃にまみれながら嗅ぐ抹香の匂いは、なんともすがすがしく、心の奥底まで浄化されるような気がした―。

 堺六郎著「シベリアのラーゲリを逃れて―ホロンバイルからシベリアへ」(筑摩書房)の102ページに書かれた一節だ。1944年の暮れ、満洲国の外モンゴル国境地帯。著者は、吹雪の中、ホロンバイル(フルンボイル)大平原のポツンと一軒家のようなモンゴル人の家にたどり着いた。食事でもてなされ、寝ようとしたら、香を焚いてくれた。穏やかな気持ちで眠りにつけるようにとの配慮なのか。

  モンゴル人にとっては当たり前のことかもしれないが、私には、究極の精神文明のように思いながら読んだ。不便な生活を送っていても、客人をもてなす心の余裕を持っている人々は豊かなのではないかと考えてしまう。

 著者は、1918年、福島県喜多方市の生まれ。満洲拓殖公社や兵役を経て、東蒙古株式会社に入社し、ウルシュンを拠点に酒や雑貨の販売をしていた。一方、ハイラル特務機関ウルシュン連絡所の一員として現地の情勢を探る任務もあった。

 この本の前半は、「蒙古放浪」のタイトルで、ホロンバイルの草原の一つ「メヌンタラ」の自然、モンゴル人(バルガ族、ブリヤート族)や満人との交流、そして冒頭のような体験談が次々と描かれる。

 後半は、「シベリアのラーゲリを逃れて」の題で、終戦直前の再応召、日ソ開戦、妻子の死、シベリアでの抑留生活が描かれる。抑留は28歳から40歳まで。著者は「わたしにとっては悪夢のような空白の12年であった。消しゴムで消せるものなら消してしまいたい…」と書いている。

 この本は、ホロンバイルは天国、シベリアは地獄―と対照的に記述し構成したものだと私は思う。

 著者は1956年12月、やっと帰国した。帰国後は、宮城県蔵王町の遠刈田温泉近くでニジマスの養殖場を経営し、この本は1987年に出版された。

 私は50年前、著者の堺さんのニジマス養殖場に2週間、居候したことがある。友人の父親が共同経営者だった関係で、友人と一緒にお世話になった。

 堺さんは、塗炭の苦しみを経験されたせいか、とても穏やかな人だったと記憶している。私たちに、羊肉の塊を塩ゆでした「チャナスンマッハ」をごちそうしてくれた。そのとき、「ジンギスカン焼き、あれは日本料理だ」と説明した。モンゴルについて話すときは、いつも静かな語り口だったが、シベリアの話になると「ロスケ」という言葉を何度も口にした。

 私にとっては初めてのモンゴル話だったが、そのときは、それで終わった。当時の私は、モンゴルよりもシベリア抑留に関心があったと思う。

私がモンゴルについて興味を持ったのは、1998年、山形市で勤務していたとき、モンゴル人の留学生に出会ってからだ。モンゴルの歴史や民俗について自分なりに勉強し始めたとき、堺さんのことを思い出した。仙台に戻って、しばらくしてから、ご自宅を訪ねると、堺さんは入院していた。奥さんによると、来客とお話しできる状態ではないという。この本は、そのとき、奥さんからいただいた。その後、堺さんは他界してしまった。

  もっと早く、元気なうちにお会いして、ホロンバイルの思い出話を、じっくりと聞いておけばよかったと後悔している。

▽森修 もり・しゅう 
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。


草はら
【写真】ミンガド・ボラグ著「草はらに葬られた『日本特務』―日本人による『内モンゴル工作』とモンゴル人による『対日協力』の光と影」(関西学院大学出版会)の表紙

 中国の内モンゴル自治区から日本に来たモンゴル人と話したことがある。モンゴルが北と南に分かれた原因は何だと思うか、私が尋ねたところ、「日本がモンゴルに中途半端にかかわったからですよ」と言われた。

 ミンガド・ボラグ著「草はらに葬られた『日本特務』―日本人による『内モンゴル工作』とモンゴル人による『対日協力』の光と影」(関西学院大学出版会)を読んで、あらためて、その人が話した意味がわかった。

 著者は内モンゴル出身のモンゴル人。本書は、著者の子どものころの体験を基に、著者の家族や関係者に聞き書きしたことをまとめたものである。主に1930年代から60年代、満洲事変から中国の文化大革命のころにかけて、内モンゴルのモンゴル人が、日本人、中国人(漢人)、ロシア人などの間でもみくちゃにされ、肉体的、精神的に大きな打撃をこうむった歴史を振り返っている。

 「日本特務」とは、旧日本軍の特務機関で、現地の情勢を探るとともに、日本の立ち位置を現地の人々に広報する特別の任務を持っていた。モンゴル人も多数参加しており、文化大革命のときは、「日本帝国の走狗」「日本刀をぶら下げたやつら」として、真っ先につるし上げられた。

 本書には、謎に包まれた羊飼いの老人バートルが紹介されている。バートルは、日本語を学び、関東軍の諜報員として、今でいえば高級車に当たる自転車を乗り回す羽振りの良い生活を送っていたが、地雷に触れて片手を失ってからは、反日家に転向し、お陰で文化大革命の荒波からは逃れることができた。その後、過去を隠しながら羊飼いとなり、晩年は飲んだくれの人生を歩みながら「日本がもう一度助けてくれる」ことを妄想する…。

 聞き書きなので、ノンフィクションだ。しかし、私には、まるで映画の一場面のように思えてくる。そんな波乱万丈のモンゴル人が何人も登場する。

 著者は、自らの体験も語っている。モンゴルのことを知りたいという日本人からの電話に出たときのことだ。「私は内モンゴルから来た…」と自己紹介が終わらないうち、向こうから「内モンゴル人ということは、つまり中国人だね。なら会わなくて結構」と言われ、一瞬凍りついたという。

 私は、似たような逆のケースを聞いたことがある。モンゴル国(外モンゴル)から日本に来たモンゴル人留学生は、日本人から「モンゴル人ですか。それなら中国語はわかりますね」と言われたという。日本人の中には、モンゴルと中国の区別がつかない人が多い。

 日本は、日清戦争や日露戦争に勝ち、大陸進出を開始した。そのころ、内モンゴルでは、古来からの遊牧民(モンゴル人)と無断入植の中国人(漢人)の対立が目立ち始めていた。モンゴル人は、日本に協力することで日本語を覚え、教育の機会を得た。特に特務機関による軍事教育を受けたモンゴル人は、強力な武装組織になった。しかし、日本が米国との戦争に負けたことにより、急速にしぼんでしまう。それどころか、文化大革命では、モンゴル人の「対日協力者」は狙い撃ちにされ、多数が殺されてしまう。

 モンゴルが南北に分断されたのは、もちろん、日本のせいではない。米国、英国、ソ連の3国が、第二次世界大戦が終了した後の利害を調整したヤルタ協定(1945年2月)の結果だと思う。

 しかし、この本は、日本や日本人を批判する記述がある一方、行間には、日本に向けた切実な願望もにじんでいる。チベットやウイグルで起きているような問題は、内モンゴルにもある。日本は、旧宗主国の責任として、内モンゴルのモンゴル人の権利や伝統文化を守るために、もっと国際責任を果たしてほしい―と訴えているように私は感じた。

▽森修 もり・しゅう 
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
草はらに葬られた記憶「日本特務」
ミンガド・ボラグ
関西学院大学出版会
2019-10-10


UBの都市環境
【写真】モンゴルの都市環境の変容をテーマにしたシンポジウムのパンフレット

 ウランバートルはモンゴルではありません―。モンゴル国立大のバトフー教授の言葉だ。モンゴルを知るには、田舎に行かないと駄目だという意味なのだが、東北大で開かれた「モンゴルの都市環境:変容の諸相」と題したシンポジウムを傍聴して、バトフー教授が言ったことを思い出した。教授はオブス県出身の薬草研究者。モンゴルの田舎と都市の落差を肌で感じている一人だと思う。

 シンポジウムは12月14、15日に開かれた。私は初日を傍聴した。モンゴルは遊牧民の国と言われる。しかし、現代のモンゴルは、定着民としての姿が大きくなっている。人口323万人のうち、220万人が都市部で暮らしている。特にウランバートルには150万人が住んでおり、交通渋滞、大気汚染などの問題が深刻化している。

 東北大東北アジア研究センターの岡洋樹教授らは、数年前から、文化人類学、建築学、心理学、地理学、歴史学、都市計画などの研究者や実務家と一緒に「都市としてのモンゴル」の研究を進めている。特にウランバートルのゲル地区が、どのように変容しているかについて、さまざまな角度から迫っている。今回のシンポジウムは、その流れの中で開かれた。

 モンゴルの人口の都市集中は、社会主義から自由主義へ世の中の体制が変わったことが大きい。貧富の格差が広がり、貧困層が職を求めて都市に流れ込んだ。ゾドと呼ばれる自然災害が拍車をかけた。2002年の土地私有化法で、だれでも無償で土地を得ることができるようになったことでも都市への移住が進んだ。

 東京工芸大の八尾廣教授は、「遊牧から定住へ ウランバートルのゲル地区と社会主義時代のアパートに見る定住文化の萌芽」と題して発表した。

 八尾教授は、建築学の立場から、ゲル地区を快適な住宅地に変えるための方策について研究している。ゲル地区の住宅を訪ね、住民の聞き取り調査を行うとともに建物の間取りや屋根、壁、床の構造などを調べている。

 その結果、ハシヤー(柵)内で野菜を作り、木を植え、庭造りを行う住民がおり、中には近隣住民と協力して、ハシャーを取り払い、土地を広く利用したり、歩道に花壇やベンチを設けている事例があることも分かった。

 八尾教授は「住環境を改善しようとする意識の高い住民が増えており、コミュニティー意識が芽生えている」と分析している。一方、建築士の立場から「バイシン(固定家屋)の断熱に関する知識が不足している」とも指摘している。

 自然に囲まれた遊牧生活から、都市での定着した生活へ―。この流れは、だれにも止められない。昔の生活に戻れとも言えないだろう。しかし、それにしても、と私は思ってしまう。

 私は今年10月に訪モしたとき、帰りの飛行機で宮城県石巻市の女性と一緒になり、少しばかり立ち話をした。その人は、旅行会社の企画に参加した初めてのモンゴルだった。私は感想を聞いた。「本当は羊を見たかったんだけど…、見れなかった」との言葉が返ってきた。

 その人は元農家で、昔、自分でも羊を飼っていたという。そこで、いつか羊が群れるモンゴルに行ってみたいと思うようになり、今回、ツアーに応募したのだが、希望はかなわなかった。

 私は、「田舎に行けば、羊、牛、馬、ヤギ、ラクダの五畜と呼ばれる動物がいっぱい見られますよ」と説明したのだが、そう言う私自身、バトフー教授の言葉が胸にひっかかったままだった。

▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

遊歩道
【写真】ダンバダルジャー寺院北側の山に今年夏に完成した遊歩道=2019年10月6日

 ウランバートルは発展中だ。街の風景の変化が激しい。今回の訪モで驚いたのは、日本大使館そばにあるゲンデン元首相の旧宅が取り壊し中だったのと、ダンバダルジャー寺院の裏手の山に階段状の遊歩道が出来ていたことだ。

 階段状の遊歩道を見たのは、日本人慰霊碑に行くときだった。車で寺のそばを走ったら、見えた。派手だなあと思った。お寺の静穏な雰囲気を壊しているのではないかとも感じた。たとえて言えば、奈良・東大寺や京都・清水寺の隣に遊園地が出来たような、そんな感じにも思えた。

 この山の名前は何ていうのだろう。遊歩道は、慰霊碑の方からも見えたので、慰霊碑管理人の奥さんに聞いてみた。しかし、奥さんは答えてくれなかった。

 このとき、通訳は、仙台在住のエルデネダライさんにお願いした。彼は、中古車の輸出などで仙台とウランバートルを何度も往復している。

 その彼によると、モンゴルでは、聖なる山の名前を、その場で言うことをはばかる習慣があるそうだ。直接、名前を呼ばずに「あの山」とか「ながめのいい山」とか婉曲に表現するのがマナーなんだという。なるほど、それで管理人の奥さんは答えなかったのか。

 慰霊碑を訪問した後、ダンバダルジャーの寺に寄った。ちょうど坊さんが通りかかったので、山の名前を尋ねてみた。人の好さそうな坊さんだった。「遠い日本からおいでになったのだから、教えてさしあげましょう」と言いながら「ゾンホブ山(オール)」と言った。エルデネダライさんは、私が日本人であることを説明しながら通訳したようで、特別に教えてくれたようだ。ん? ということは、普通は、ただでは教えないということなのか―。

 坊さんは、遊歩道は今年の夏にできたこと、山の上にはオボー(石塚)があって、市民に親しまれていること、山頂からのながめがいいことなどを説明してくれた。

 後日、私は再び日本人慰霊碑を訪ねた。このときは運良く管理人に会うことができた。早速、山の名前を聞いた。管理人は「タヒラグト山(ハイルハン)」と言った。

 モンゴル語で、山は「オール」だが、特別な山は「ハイルハン」と言うそうだ。寺の坊さんは「オール」と言ったが、管理人は「ハイルハン」と区別している。しかし、「ゾンホブ」と「タヒラグト」はどう違うのか。山といっても、丘の連続のようなものなので、細かいことを言えば、ピークがいろいろあるということなのか。

 このとき通訳を頼んだ元留学生のTは、「聖なる山だから、ゾンホブという正式な呼び名は、口にしないということではないですか」と言う。

 難しいなあ、でも面白いと思っていたところ、フェイスブックに、山の遊歩道の周りに人々が植樹している映像が出た。元留学生のGに聞いたら、UBSという放送局の「CityNews」という報道番組だった。

 Gは「市民に親しまれている山に、住民が木を植えるなんて、すばらしいじゃないですか」と言う。

 なるほどな。私は当初、聖なる山の静穏な雰囲気を壊す派手な遊歩道―だなんて言ったけれど、それは、よそ者の余計なおせっかいだったか。


▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
 
チンギス・ハンとモンゴル帝国の歩み (フェニックスシリーズ)
ジャック・ウェザーフォード
パンローリング 株式会社
2019-10-12

↑このページのトップヘ