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タグ:日馬富士

卒論発表会
【写真】ウランバートルのナランバヤル元校長(中央画面)とオンラインで対話する日本に留学した新モンゴル小中高の卒業生たち=2021年3月29日、東京都江戸川区のタワーホール船堀

 日本の大学や大学院に留学したモンゴルの若者たちが、どんな卒業論文を書いたかを発表し合う勉強会が、3月29日、東京であった。ウランバートルにいる恩師や先輩たち、日本にいてもコロナ禍で出席できない人たちとオンラインで結び、質疑応答も交えて、熱心にやり取りした。

 勉強会を開いたのは、新モンゴル小中高の卒業生たち。毎年3月末、日本の大学を卒業した人たちが集まり、卒業論文を発表してきた。発表会は、卒業式に合わせて来日した校長、父母、日本各地から集まった後輩留学生、支援する日本人ら100人規模の盛大な催しだった。

 しかし、昨年はコロナ禍で中止となった。今年は、同校の創設者で新モンゴル学園理事長と日馬富士学校の校長を務めるガルバドラッハ(愛称ガラー)さんと親交のある日本のロータリークラブ会員有志による奨学金団体「ガラーフェローシップ(GFA)」が協力し、オンライン形式で、GFAの総会も兼ねて復活した。

 卒論発表は、昨年の卒業生も含めて13人が行った。ほかにガラー理事長や先輩の元留学生、GFAを受給している留学生も、日ごろの研究内容を披露した。

 昨年、東京の医薬品開発会社に就職したオチルダリさんは、東大の新領域創成科学研究科の修士論文「微小管阻害薬暴露後のがん微小環境が肺扁平上皮がんの悪性度に与える影響」を発表した。

 今春、群馬大理工学部を卒業したオユンジャルガルさんは「積層式高調波型磁気歯車の減速・動トルクの検証」と題して発表した。彼女は4月から同大の修士課程で勉強を続ける。「将来は人型ロボットに関係した仕事に就ければ」と話している。

 オンラインは、グーグルのミート機能を使って行われた。一部ズームも使った。名古屋、熊本など遠隔地の留学生はオンラインで卒論を発表した。コロナ禍で出席の呼びかけを見合わせた後輩留学生のために、会場の様子はフェイスブックを使ってライブ配信した。

 ガラー理事長は現在、名古屋大学の博士課程に在籍している。この日の勉強会では、「私は58歳の学生です」と前置きしながら、「モンゴルにおける公立学校の経営改善」をテーマに、研究対象として8校を選び、いろいろ調査していることを説明した。
 
 新モンゴル小中高では、日本の大学に私費留学を目指して渡日した卒業生が、受験が山を越した3月、仙台や愛知県岩倉市などに集まり、一緒に寝泊まりして、4月からの新生活に備える「世界一合宿」を行ってきた。昨年はコロナ禍で中止されたが、今年は、寝泊まりしないオンライン形式の「合宿」として復活した。
 
 同校は、日本留学希望者を、ただ片っ端から送り込むことは、していない。入学前の合宿も卒論発表会も、アフタケアをしっかり行うことが狙いだ。

 これまで、日本政府が奨学金を支給する国費留学は、4月はじめの渡日になるので、彼らをどうケアするかが課題だった。しかし、今年はオンライン合宿なので、私費組と国費組が初めて一緒に「合宿」となった。問題は一つクリアしたことになる。



▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

中国人とモンゴル人 (産経NF文庫)
楊 海英
潮書房光人新社
2021-02-25


ムンフバット
【写真】岩手山に見守られながら羊を世話するムンフバットさん

 岩手大学を卒業したモンゴル人のL・ムンフバットさんは、岩手県滝沢市の岩手山ろくで羊の多頭飼育に挑戦中だ。主にラム肉を生産し、モンゴル伝統のゆで肉料理「チャナスンマッハ」や肉と野菜の蒸し焼き料理「ホロホグ」を日本人に知ってもらおうと計画している。
 
 羊の飼育は、2018年4月、酪農をやめた滝沢市内の牧場を借り、岩手県岩泉町から8頭を導入して始めた。少しずつ飼育数を増やし、今年は60頭になったが、2月、3月は出産期なので、3月11日現在で子羊16頭が生まれ、計76頭だ。近く100頭に増える見込み。
 
 ムンフバットさんは34歳、モンゴル西部のザブハン県生まれ。父親はトラックの運転手をしており、13歳のときウランバートルに引っ越した。祖父母は遊牧民で、子どものころは、夏休みのときなど、馬に乗ったり、羊など家畜の世話を手伝ってきた。
 
 ムンフバットさんは、2009年春、岩手大人文社会科学部に入学し、安田財団の奨学金を得て卒業した。在学中からモンゴル文化を日本人に紹介する活動を続け、卒業直後の2013年5月、滝沢市(当時は滝沢村)の日帰り温泉施設の敷地内に、移動式住居ゲル5棟を設置して宿泊可能な「滝沢モンゴル村」を開業した。
 
 新事業は、株式会社モンゴル未来(資本金600万円)を設立するなど意欲的な展開だったが、温泉の井戸が壊れ、市が復旧を断念したことで、モンゴル村の事業も行き詰まった。ムンフバットさんは、モンゴルの羊毛製品やカシミア製品の輸入販売などを行い、起業精神を維持してきた。
 
 2019年、北海道士別市で1カ月間、羊飼育の研修を受けるなどして、本格的に羊牧場の計画が始まった。士別市は「サフォークランド士別」をキャッチフレーズに、肉質を重視したサフォーク種の羊飼養マニュアルを作るなど、市を挙げて力を入れている。
 
 ムンフバットさんの目標は、100頭規模の牧場を10カ所経営すること。羊は全部で1000頭規模になる。滝沢市は、岩手山ろくの気候風土に合わせて、牧場が発展した歴史があるものの、最近は廃業する農家が多いそうだ。周辺には、独立行政法人の家畜改良センター岩手牧場、岩手大学の農場、盛岡農高、小岩井農場などがあり、農業や牧畜を行う環境は整っている。しかし、最近は、どこも酪農が中心で、羊の飼育はパッとしない。

  ムンフバットさんは、滝沢市商工会の青年部に所属し、会員同士で地域おこしについて話し合っているという。そんな中、牧畜業を立て直し、羊を利用した観光と特産品づくりを進める案が浮上、岩手県立大が取り組む地域協働研究に応募するまでになった。課題名は「持続可能なめん羊牧場経営のための滝沢モデルの構築」だ。
 
 地域おこしの一方、モンゴル人としては、羊肉を使ったモンゴル料理の普及も狙いだ。モンゴル人は肉食民族なので、焼き肉ジンギスカンをふるまわれると喜ぶ。しかし、ジンギスカンは日本料理であり、モンゴル建国の英雄の名称が付けられていることに違和感を示す人もいる。私は、留学生から「おかしいと思いませんか」と不満をぶつけられたことがある。
 
 私は、モンゴル料理のチャナスンマッハやホロホグを何度も食べた。両方とも、ジンギスカンに負けないぐらいに、日本人の口に合うと思う。ムンフバットさんは「日本で出回っている羊肉は、ほとんど輸入品。日本産の羊肉を、もっと日本人に食べてもらいたい」と言う。
 
 ムンフバットさんの妻ミシェルさんは、新モンゴル高の後輩で岩手大工学部を卒業し、北海道の建設会社を経て、現在は岩手県庁で土木行政に携わっている。夫婦で日本永住権を取得した。昨年8月、盛岡市内にマイホームを新築した。長男は4月から小学校の1年生だ。5月には3人目の子が生まれる。
 
 羊牧場は、間もなく出産期が終わり、5月は毛刈りが始まる。その後は牧草の刈り取りだ。ムンフバットさんは、これから公私ともに忙しい日々が続く。



▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

世界の食文化 (3) モンゴル
小長谷 有紀
農山漁村文化協会
2005-06-01


3月11日夜
【写真 2011年3月11日夜、停電のためロウソクの明かりの下で夕食をとるモンゴル人受験生ら。余震が続き、不安は消えなかった。この後、近くの西多賀小学校の避難所へ行く


 2011年3月の東日本大震災から10年がたった。わが家の隣に空き家となった両親宅があり、当時はモンゴル人20人が合宿していた。日本の大学を受験するため来日した新モンゴル高校の卒業生、指導役の先輩留学生、付き添いの教員らだ。受験生たちは、4月からの新生活に備えるため、3月1日から約3週間の日程で、毎年、仙台で合宿していた。

 大地震のとき、受験生たちは、仙台市の八木山動物公園にいた。東北大を見学し、動物公園を見て、近くの谷口和也・東北大准教授宅で夕食をごちそうになる予定だった。想定外の事態でパーティーは中止となり、受験生らは、谷口先生の妻あゆみさん手作りの料理を持って、仙台・西多賀の合宿所に戻った。

 合宿所は、電気とガスは止まったが、水道は使えた。合宿所の暖房は、古い反射式の石油ストーブ1台のみ。みんな毛布や布団にくるまり、ローソクの明かりの下、夕食となった。余震が続き、不安だった。しかし、谷口さん手作りのひき肉ジャガイモ入りパン、チーズケーキ、チョコレートケーキなどのごちそうを食べ、一息ついた。

 夕食後、20人は、近くの西多賀小学校の体育館に設けられた避難所に行った。その夜、ウランバートルのガルバドラッハ新モンゴル高校長から電話があった。モンゴルでは、津波が、宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)海岸に押し寄せる自衛隊撮影の生々しい映像が衛星放送とケーブルテレビを通じて各家庭に流れ、大きなニュースになっていた。

 ガルバドラッハ校長は「そちらは、テレビが見れますか。私は、NHKをずっと見てます。もし津波が迫っているのがわかったら、知らせるから、すぐに逃げてください」と言った。私は一瞬、ん何?と思ったけれど、「おう、それはありがたい」と返事した。

 午前零時すぎ、東京のモンゴル大使館から電話があった。モンゴル人たちは近くの小学校に避難していて無事だと伝える。全員の名前を知りたいというので、折り返し調べて返事すると伝えた。その後、こちらから電話したが、つながらない。午前4時ごろだったか、やっと20人全員の名前を伝えることができた。

 3月12日午前6時、私は西多賀小学校に行った。受験生らは、炊き出しのワカメ入りご飯を食べ、水洗トイレに使う水をプールから運ぶ手伝いをした後、合宿所に戻った。

 受験生らは、3月12日夜も西多賀小学校の避難所で夜を明かした。合宿所と避難所の往復のとき、彼らは布団、毛布、懐中電灯、石油ストーブ、ラジオなどを手分けして持ち、パッ、パッと運んでしまう。手際の良さは遊牧民の伝統を思わせた。

 3月13日午後、20人は山形県村山市に移動した。村山市国際クラブの皆さんとの2泊3日の交流会が予定されていた。しかし、翌日、受験生らは、JR山形駅前からバスで新潟経由で成田空港へ向かった。モンゴル政府は、自国民を帰国させるためのバス、飛行機を手配しており、仙台と山形の場合は、山形駅前に集合するように言われた。

3月12日朝
【写真◆2011年3月12日朝、避難所から合宿所に戻り、津波の惨状を伝える河北新報を見て沈黙が続く。紙面ではマグニチュード(M)8・8となっているが、その後、気象庁は「M9」と訂正した

 
 3月12日朝の写真に写っている左端の男性は、新モンゴル日馬富士学校で地理を教えるバトドルジさんだ。彼は当時、新モンゴル高校の教員で、大阪教育大に1年半の予定で研修留学中だった。たまたま教え子たちの様子を見に仙台に来て、大震災に遭遇した。

 左から2人目のエンフバートルさんは、3月7日に弘前大合格を決めたばかりだった。彼は弘前大を卒業後、モンゴル外務省の職員になった。

 バトドルジさんは、教え子たちと一緒に山形からバスで成田空港に移動し、帰国する彼らを見送った後、大阪に戻った。「東日本大震災は、私にとっても生まれて初めての忘れられない経験でした。授業ではよく生徒たちに話します」と彼は言う。

 以上は、私が見たり聞いたりしたことのごく一部です。東日本大震災のとき、日本にいたモンゴル人や支援する日本人がどう行動したかについて、詳しくは、拙著「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」の第3章「閖上の海」を見ていただきたい。



▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

〈画文集〉第70代横綱日馬富士 相撲道
橋本 委久子
藤原書店
2018-09-25


照ノ富士

まいど、編集長のタケシです。

両横綱欠席の今場所、注目してた貴景勝と照ノ富士の取り込み、私が完全に勘違いして照ノ富士優勝したと思ったら、2回目の取り込みで照ノ富士が破れ、優勝に至らなかったです。

完全に、希望として照ノ富士が優勝して欲しかったぁ。







相撲 2020年 09 月号 [別冊付録:秋場所本物新番付]
ベースボール・マガジン社
2020-09-03



やまがた
【写真説明】金子社長罎肇リドさん茵▲魯鵐イバヤルさん=山形市松栄のエム・エ
ス・アイ本社

山形市で企業システムの構築や運用支援などを手掛ける「エム・エス・アイ」(金子昌弘社長、資本金2000万円)で、日本の大学を卒業した2人のモンゴル人が働いている。同社は、金子社長が兼務する系列会社「IHC」が、優秀なモンゴルの人材を発掘し、日本企業に紹介する有料の職業紹介事業にも力を入れており、来春までに、さらに2人のモンゴル人を雇用する予定だ。

同社に勤務しているのは、2018年春に立命館大国際関係学部を卒業したハンガイバヤルさんと、今年春に山形大人文社会科学部を卒業したガリドさん。2人ともウランバートル市の日本式学校「新モンゴル小中高」を卒業しており、高校生のころから日本語を学んでいた。ハンガイバヤルさんは、大学での授業はすべて英語だったという。ガリドさんも、山形大と提携するフィリピンの大学に留学した経験があり、英語が得意の国際派だ。

エム・エス・アイ社は、以前から中国人や台湾人を採用しており、金子社長は「日本に留学した外国人は優秀だ」と評価していた。モンゴルについては、北京やウランバートルなどに行政書士事務所を構える知人から「モンゴル人もいいよ」との話を聞いており、関心はあったという。

新モンゴル小中高を創設し、現在は新モンゴル学園の理事長と日馬富士学校の校長を務めるJ・ガルバドラッハさんは、山形大と東北大に留学した際、家族6人で6年間、山形市民だった。金子社長は、このことを知るにつれ、モンゴルへの関心は深まっていった。

金子社長は山形中央ロータリークラブの会員。ガルバドラッハさんは、山形北ロータリークラブ会員の紹介で米山奨学金を受給した経験があり、現在はモンゴルのフレーロータリークラブ会員として活動している。金子社長は、同じロータリアンとしてのつながりから、山形北ロータリークラブが、創立50周年の記念事業して、2018年2月、ガルバドラッハさんが経営する新モンゴル高専に、教育設備費として300万円を寄贈した際、テープカットの式典に同席している。

社員のガリドさんは、山形大3年のとき、エム・エス・アイ社の会社説明会に出席したところ、直ちに「内定」となり、金子社長は、フィリピン留学の奨学金も出してくれた。

ハンガイバヤルさんは、立命館大を卒業後、モンゴルに帰国し就職したが、日本への思いが募り、2018年秋にエム・エス・アイ社と連絡を取ったところ、金子社長から「面接に来なさい」と言われ、来日したら「内定」となり、ビザの関係で入社は2019年1月となった。
金子社長は「モンゴル人は、顔は日本人と同じで違和感がないし、日本語の能力は高い。大相撲で活躍している力士を見てもわかる通り、日本社会に溶け込んで、がんばる気持ちも強いと思う」と言う。

「ただし、ネックは、いつまで日本にいてくれるかです」と金子社長。モンゴルからの留学生は、大学卒業後は帰国し、祖国の発展に貢献しようとの意識が強い。奨学金の支給元は、「卒業したら帰国」を促す傾向にあり、ガルバドラッハさんも、これまで教え子たちに、そのように指導してきた。

しかし、金子社長は「日本式経営の基本は、企業は人なりの精神。入社して3年とか5年とかは先行投資です。せっかく一人前に育て上げ、さあこれからというときに帰国されてもねえ」と言う。単なる腰掛けでの入社は困る。

もっとも、金子社長は、帰国はダメとは言っていない。「企業家としての心構え、マネジメントの能力などは、大学で勉強するだけでなく、実際に社会に出て、現場で働いてこそ身に付くのではないか」と言い、「日本で経験を積み、モンゴルに帰国しても、何か日本とつながるようなビジネスを考えてくれたら、うれしい」と理解を示している。

ハンガイバヤルさんは、山形ローターアクトクラブの2020-2021年度の会長、ガリドさんは副会長を務めており、2人とも「仕事以外でも何か社会貢献できないか、みんなで考えています」と意欲的だ。

▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

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