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タグ:日本式

電気回路
【写真 枩昌殻隻Г気(左から2人目)が見守る中、自分で作った電気回路の実験=2019年10月2日、モンゴル高専

溶接
【写真◆曠ス溶接の実習。モンゴル高専には、学生17人が同時に実習できる設備がそろっている

 「ものづくり重視の教育を行っています」。モンゴル高専で技術移転センター長を務めるガンオドさんは、力強く語り説明した。
 モンゴルには、日本の高専(工業高等専門学校)にならった学校が3校ある。私立のモンゴル高専と新モンゴル高専、国立科学技術大学の付属高専の3校。いずれも2014年9月に開校し、今年、初めての卒業生を送り出した。日本の高専を卒業したモンゴル人が、日本と同じ学校をつくりたいと奔走し、日本の高専関係者も支援して誕生した経緯がある。
 モンゴル高専は、もともと建設関係の専門学校だったが、モンゴル技術工科大となり、さらに高専を併設した。高専は、建設、機械、電気電子、生物の4工学科があり、学生数は270人。教職員は60人。このうち日本人の常勤教員は4人。ほかに日本人の短期間の講師は多数に及ぶ。
 モンゴル高専の設備は、日本から移設したものが多いそうだ。東京都立高専で使われた製図用具や旋盤、閉鎖された三井化学鹿島工場から譲られたガス・水質分析機器、三菱電機名古屋工場のインバータなど。モンゴルでは、山形市などの学校で使われた中古の机や椅子が多数、再利用されているが、ものづくりのための道具もいっぱい活躍している。
 ガンオドさんは、日本式の高校「新モンゴル高」(現在は小中高)と宇都宮大工学部の建築学科を卒業している。彼が担当する技術移転センターには、旋盤12台、溶接機17セット、フライス盤などがそろっており、ちょっとした町工場のよう。
 「日本には、専門技術を持った中小企業がいっぱいあり、技術大国を支えている。モンゴルも日本を見習って、何でも自分で造れる職人を育て、中小企業を育成しなければならない」とガンオドさんは言う。
 実際に取り組んでいる事例として、ガンオドさんは、気球の実験を挙げた。3万メートルの成層圏に気球を上げ、ちりを集めて微生物を探しているという。モンゴルは海がなく、森林も少ないので、日本と違ってサンプルを集めやすい。
 ウランバートルは、冬の大気汚染が深刻な社会問題になっている。気球の実験は、その現状把握にも役立つ。気球で汚染データを集めるのだが、リアルタイムで調べるには、情報をやり取りする空中の中継通信基地が必要なのだという。そこで、情報を中継するためのドローンを自前で製作しているそうだ。
 生物工学科では農業の研究も行っている。黒ニンニクをモンゴルの気候風土の中で効率良く栽培する方法、トマトやレタスの水耕栽培、家畜の排せつ物からメタンガスを取り出し利用する方法などなど。
 モンゴルは学歴社会である。私は、留学生と話す機会が多いが、大体は「大学院に進学したい」と言う。しかし、ガンオドさんは「頭で考えるだけでなく、実際に、ものづくりをしないと駄目だと思う。ものづくりを通して、チャレンジ精神や達成感を醸成したい」と言う。
 モンゴル高専では、入学試験にも、「ものづくり」があるそうだ。ゴムひも、紙、粘土、わりばしなどを用意し、受験生に何かを作らせる。「いろいろな作品が出てきます。面白いですよ」とガンオドさんは言う。
 日本人教員の話も聞いた。西山明彦さん、78歳は、2013年秋、モンゴル高専が正式に開校する1年前、試行的に開校したときから電気工学を教えている。「モンゴルの若者を見ていると、日本の昭和30年代の若者と似ているように感じる。ものごとに敏感で、何でも関心を持ち、努力している」と西山さん。
 モンゴル高専は、「ディレクトフォース」の遠隔授業も取り入れている。日本の経済成長を支えた企業戦士のOBたちが、ボランティアで、長年培った所見を、光ファイバーの高速ネットワークを使って行う授業だ。西山さんは「実際に、ものづくりを行った技術者が、実験をしながら進めるところがすばらしい」と説明する。

▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

チンギス・ハンとモンゴル帝国の歩み (フェニックスシリーズ)
ジャック・ウェザーフォード
パンローリング 株式会社
2019-10-12


教員の日
【写真】生い立ちや教員になった理由などを話すラオグドラムさん(中央)。茲魯淵薀鵐丱筌觜残后2019年10月5日

 新モンゴル小中高の創立19周年の記念式典が10月5日、姉妹校・日馬富士学校の体育館で開かれた。この日は「教員の日」。式典では、校長式辞や来賓祝辞など型通りの行事もあったが、「ゲストティーチャー」として登壇した生徒指導のラオグドラム(LD)さんが、ナランバヤル校長や生徒との間で、なごやかな会話を繰り広げた。
 LDさんは、馬乳酒で有名なブルガン県サイハン村の遊牧民の家庭に生まれた。檀上のスクリーンには、乳しぼりの手伝いをするLDさんの写真が映し出される。大草原を走るトラックの荷台に人がいっぱい乗っている写真もある。「昔はバスなんてなかったんですよ」とLDさんは説明した。
 子どものころから成績が優秀だったLDさんは、会計士を目指してモンゴル国立大の経済学部を受験した。しかし合格できなかった。1年間、遊牧民の生活に戻った後、今度は教育学部に合格できた。その後、「先生になって良かった」という体験談が続く。 LDさんは、教員生活をするうちに、自分の学校を持ちたいと思い、実際に開校した。しかし、資金が足りず、1年で挫折したという。「学校の経営者よりも、教員のままで生きようと思った」と反省の弁を語った。
 なぜ新モンゴル小中高の先生になったのか―。学校経営に失敗し、教育改革のNGOで活動していたとき、当時のガルバドラッハ校長に誘われたからだという。しかし、気が進まず、採用試験の面接の日は、「ノー」と言おうと思って出かけたという。ところが、実際に学校を見せてもらううち、気持ちは「イエス」に変わった。「外国人(日本人)が、親と同ように支援している学校であることを知って、ここで働いてみようと思った」という。
 生徒との質疑応答では、人生相談のような質問も出た。7年生(中2、日本では中1)の女子生徒からの質問だった。
 「最近、母が出産しました。私は3人の弟や妹の面倒をみなければなりません。私は、ほかにやりたいことがいっぱいあるんです。先生、私はどうしたらいいでしょうか」
 LDさんは答えた。「私は子供のころ、いろいろと家の手伝いをしました。あなたも、きょうだいで、できることを分担すれば、きっとできますよ。がんばりましょう」
 LDさんへの感謝の言葉を述べる生徒もいた。「私は、父が交通事故で亡くなったとき、とても悲しかった。収入がなくなり、学校に行けなくなった。そのとき、先生は、奨学金を見つけて、励ましてくれました。先生、あのときは、ありがとうございました」
 LDさんは「私も25歳のとき、父親を亡くしました。あなたの気持ちは、よくわかります。あなたは、よくがんばりましたね」と応じた。
 生徒会の役員をしている生徒も感謝の言葉を述べた。「先生は、生徒指導の文書を、ガラ先生(ガルバドラッハ校長)に出したら、赤い字でいっぱい直されたと言いました。私も、生徒会の文書を先生に見せると、いっぱい直されます。先生、いつも私の文章を直してくれて、ありがとうございます」
 式典の会場は、完成したばかりの姉妹校の体育館。バスケットボールのコート2面が使える立派な施設だ。そこに生徒、教職員、来賓合わせて1000人以上が詰めかけた。新しい施設のこけら落としのような式典だった。
 こんな中、生徒と先生による会話が続いた。私は、そばで聞いていて、ほのぼのとしたアットホームな空気を感じた。すばらしい学校だと思った。
 




▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
全身全霊 第70代横綱、18年間のけじめ 日馬富士公平
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2018-09-27


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【写真説明】山形大学で研修中の日馬富士学校の美術教員、ガルバドラッハさん茵モンゴル人留学生のデルゲルツェツェグさん罅▲離爛螢鵑気鶚蕕醗貊錣法△海譴らお昼ご飯を食べに行くところ=山形市の山形大小白川キャンパス

 新モンゴル日馬富士学校(ウランバートル市)で美術を教えるガルバドラッハさんは、夏休みを利用して、山形大学で短期研修中だ。同校は昨年9月に開校して間もなく1年になる。ガルバドラッハさんは「自由で豊かな感性を持ち、考えながら表現する生徒を育てたい」と明るく抱負を語った。
 ガルバドラッハさんは、ウランバートル出身の24歳。モンゴル国立教育大で美術・デザインを専攻して卒業、2017年に日馬富士学校の教員になった。同校は開校前だったので、提携する新モンゴル小中高で2年間、美術を教えた後、日馬富士学校に移った。
 日馬富士学校は、モンゴルで一般的な小中高一貫教育を行っている。小学校が5年、中学校4年、高校は3年だ。美術や図工の授業は、8年生(モンゴルの中3、日本の中2に相当)までの生徒が学ぶという。
 日馬富士学校の小学校教員、ウルジーさんも昨年、山形大で短期研修を行っている。
 ガルバドラッハさんは、6月22日に来日した。成田空港に到着後は、東京に住む理事長の日馬富士さん夫妻に夕食の焼き肉をごちそうになり、夜行バスで山形に向かった。
 山形では、山形大学の付属小学校で2週間、中学校で1週間、美術(図工)、技術(家庭)などの授業を見学した。7月20日に帰国する。
 モンゴルと日本では、授業のやり方に、違いがあった。例えばスポーツ行事の場合、モンゴルでは、クラス対抗戦であり、運動が得意な生徒が選手となり、そうでない生徒は応援にまわって、メダルを争う。
 一方、日本では、学年を横断したグループ分けが行われ、運動が得意であるかに関係なく、全員が参加し、それぞれが頑張ったことを評価する。「どちらがいいというわけでなく、いろいろなやり方があり、興味深かった」とガルバドラッハさん。
 私は、美術教育に関して「技術と感性のバランスをどう考えるか」と質問してみた。彼は「デッサンとか基礎的な技術は不可欠です。でも、やっぱり自由で豊かな感性の方が重要かなあ」と答えた。
 最近は、コンピューターグラフィックス(CG)が大きく進歩している。私は「アナログのデッサン力は要らなくなるのではないか。コンピューターを使えば、何でもできそうだ」と聞いてみた。
 「いや。デッサンがうまい人ほどCGも使いこなすと思う」とガルバドラッハさん。
 感性を養うのには、どうすればいいか。ガルバドラツハさんは「家族、健康、教養、文化、スポーツとか、いろいろ関係してくる」と言う。
 日馬富士学校では、部活として、体操、ヨガ、美術、馬頭琴、ピアノ、柔道、テコンドーなどが誕生している。
 校舎の建設も進んでいる。8月中旬には、体育館、図書館、食堂などが入る区画(Cブロック)が完成する。これとは別に、相撲場(土俵)も近く完成する。部活の相撲部、剣道部が準備中という。
 日馬富士学校の校長は、新モンゴル小中高などを経営する新モンゴル学園のガルバドラッハ理事長が務めている。
 新モンゴル小中高を卒業して、日本の大学に進学した若者たちは、毎年3月、東京に集まって勉強会を開いている。今年の卒業論文発表会には、日馬富士さんも訪れ、若者たちを激励し交流した。
 新モンゴル小中高で長く地理を教えてきたバトドルジさんは、9月から日馬富士学校に移る。両校の教員、生徒の交流は活発化しそうだ。
 
 
▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

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2018-09-27


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【写真説明】どんな卒論を書いたか、日本で何を学んだかを発表し合う勉強会=2019年3月29日、衆議院第一議員会館

 

 ウランバートル市の新モンゴル高から日本の大学に留学した若者たちの勉強会が3月29日、衆議院第一議員会館で開かれ、大学と大学院を卒業したばかりの16人が卒業論文について発表した。勉強会には、卒業式に臨む息子や娘の晴れ姿を見るため来日した親や後輩留学生、支援する日本人らも含めて90人が集まり、日本での生活を振り返った。

 名古屋大法学部のソドチメグさんは、「モンゴルにおける暴力被害者シェルターの現状と課題」と題して発表した。モンゴルでは、女性の3人に1人が夫やパートナーから身体的性的な暴力を受けているとする調査結果があり、大きな社会問題にもなっている。彼女は、そうした被害者を守るシェルターの現状を日本と比較しながら調べ、法整備も含めて改善策を探った。

 ソドチメグさんは、卒業式にはハルハ族の民俗衣装で臨み、2206人の卒業生のうち、成績優秀者に贈られる総長顕彰者7人の1人に選ばれたことが紹介された。

 秋田大国際資源学部のハリウンさんは、「小規模鉱山企業と金の零細企業のフォーマル化」(原文は英語)と題する卒論をまとめた。モンゴルでは、ゴビなどで「ニンジャ」と呼ばれる金採掘者が多く、精錬作業での水銀汚染が問題になっている。彼女は、そうした現状を調べて問題点と解決策をまとめた。

 ハリウンさんは、卒業式にはブリヤートの民俗衣装で出席し、外国人留学生を代表して答辞を述べた。

 信州大農学部のツェンドアユシさんは「乳業用乳酸菌由来オリゴDNAケモカイン誘導能」と題して発表した。日本では乳酸菌が免疫力を高めるとする健康食品が数多く販売されている。モンゴルは乳製品が生活の中に根付いている。彼女は、4月から信大大学院で、乳酸菌に由来するDNAの研究を続ける。「将来、新薬の開発につなげることができれば」と力強く抱負を語った。

 桜美林大リベラルアーツ学群日本語教育専攻のツォルモンさんは、町田市周辺の外国人の子どもたちに日本語を教えるボランティア活動の授業を履修した500人の中から「最優秀サービスラーナー」に選ばれたことを報告した。大学から、授業の一環で日本語を教えた初の外国人留学生として認められた。

 ツォルモンさんは、今後は新モンゴル小中高のキャリア開発センター職員として卒業生の進路相談など支援活動を行うとともに、後輩たちに日本語教える。

 卒論発表会には、新モンゴル日馬富士学校を創設し理事長を務める元横綱のビャンバドルジさん訪れ、若者たちを激励した。

 モンゴルの「教育テレビ」も取材に来ていた。取材チームを率いるのは新モンゴル高と信州大を卒業したアンフバヤルさん。彼女は、昨年暮れに出産したばかりで目下、産休中だが、かつて自分が経験したことでもあり、「深みのある取材ができるのでは」と会社から打診あり、喜んで引き受けたという。番組は3本を予定している。卒論発表会のほか、私費留学を目指す受験生が千葉県で行っている合宿、留学生の一日う。

▽森修 もり・しゅう


1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

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2018-09-27



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【写真説明 曠瀬鵐丱瀬襯献磧爾瞭本人慰霊碑公園の資料館で読経の中、合掌する「柱一本の会」会員=2018年9月2日

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【写真説明◆曠好侫弌璽肇觜場に隣接するオペラハウス。強制連行された日本人捕虜が建設に当たった。今や観光名所の一つになっている

 

 日馬富士学校の開校式でテープカットした山形県上山市の長瀬洋子さんの夫、恒夫さんは山形県警の刑事部長や山形署長を務めた元警察官だ。長瀬恒夫さんは、県警を退職後、仏門に入り、新潟県や岩手県の古刹で修業を積んだ。いつもスキンヘッドで作務衣姿なので、一見すると寺の住職だ。

 昨年9月1日の開校式には私と長瀬さん夫妻ら新モンゴル高ができるときに支援した「柱一本の会」の会員6人が出席した。6人は翌日、ダンバダルジャーの日本人慰霊碑公園に行った。まず、資料館に入り、長瀬『住職』が般若心経を唱える、線香を供えて手を合わせた。

 その後、さらにを上り、慰霊碑に参拝した。このとき、八戸高専(青森県)の先生と生徒の皆さんに出会った。同校はモンゴルで自主探求の授業を行っていた。翌日、私たちは新モンゴル高専の入学式に出席したが、ここで再び八戸高専の皆さんと一緒になった。

 慰霊碑を訪れた後、ダンバダルジャー寺院に行った。真新しい病院の建物ができていた。病気になったり負傷した日本人捕虜が収容されたアムラルト病院だ。私が以前見たときは、今にも崩れそう朽ちていて、気になっていたが、生まれ変わっていた。ただし診療はまだ行っていないということだった。

 
  ボルジギン・フスレ編「日本人のモンゴル抑留とその背景」(三元社)によると、ソ連は対日戦で60万人の日本軍捕虜を獲得した。いわゆるシベリア抑留だ。このうち1万2318人がソ連からモンゴルに引き渡され、ウランバートルなど16カ所に分けられ、都市建設やトーラ川沿いの樹木伐採などに駆り立てた。日本兵の死亡は1615に上り(行方不明を含む)このうち1597人が埋葬された。

 ダンバダルジャーの丘に埋葬されたのは835人。厳しい自然環境の中、過酷な労働で病気になったり負傷した人はダンバダルジャー寺院の敷地内にあるアムラルト病院に収容されたが、力尽きると、寺院奥の丘に埋められた。一帯は長らく「日本人墓地」とされていた日本とモンゴルの国交が結ばれると、遺骨は掘り返され祖国に戻った。

 墓地跡に慰霊碑ができ、周辺は公園に整備中だ。しかし、植栽などまだまだのように見える。慰霊碑の近くまで宅地化が迫っている。乱開発を防ぐためにも、公園整備は実現してほしい。慰霊碑公園がウランバートル市民の憩いの場になることを私は願っている。

 モンゴル抑留の日本兵は、スフバートル広場周辺のオペラハウス、中央政庁舎(現在の国会、大統領府、首相府)、国立大学などの建設労働に従事した。これらの建物は、なお周辺の景観を構成する威容を誇っている。「日本人は勤勉だ。捕虜でもいい加減な仕事はしない」と評価する声にもなっている。


▽森修 もり・しゅう 
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。




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