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アムラルト病院

【写真】山辺さんの著書。名前は山辺も慎吾も旧字体が使われている
 
   アムラルト病院。モンゴル語で休養、休息を意味する病院だ。ウランバートルの東部、ダンバダルジャー(ダンバドルジ)寺院の隣にあった。山辺慎吾さんの著書「ウランバートル捕虜収容病院」(草思社)は、このアムラルト病院での体験記だ。

 1945年8月、日本の降伏後、旧満洲にいた日本兵ら60万人がソ連軍の捕虜となり、強制連行、強制労働させられた。いわゆるシベリア抑留だ。このうち1万2300人がモンゴルに抑留され、羊毛やレンガの工場、岩山からの石の切り出し、道路や建物の建設、樹木伐採など過酷な労働を強いられた。

 著者は、羊毛工場に駆り出された後、アムラルト病院で、捕虜ながらソ連・モンゴル側の下働きをさせられた。病院には、栄養失調、赤痢、結核などの患者や凍傷、作業事故で負傷した日本人が収容された。治療は、捕虜の日本人医師、衛生兵らが当たった。山辺さんは、モンゴル語を独学したことから、事務連絡などの業務に当たった。

 山辺さんは、患者が死亡すると、遺体の内ももに硝酸を使って番号を書いたり、死者を荷車に載せ、寺院と病院の北、山の斜面に運び、埋葬したりもした。遺体は、日本とモンゴルが国交を結んだ後、掘り返され、火葬して祖国に帰った。墓所の跡は、日本人慰霊碑が立つ公園となっている。

 この本には、ロシア人の女性院長が情夫を自宅に連れ込む様子や、モンゴル兵士が包茎の手術を頼み込んできたり、精神に異常を来した日本人が桶の汚物を頭からかぶる様子なども赤裸々につづられている。

 この本は、仙台市内の古本屋で見つけた。私は、春日行雄著「ウランバートルの灯みつめて五十年」(モンゴル会)を探していたのだが、なかった。そのかわり、山辺さんの本を購入した。山辺さんの著書には、春日さんが、モンゴル語ができる医師として、日本人捕虜の権利を守るために、ソ連・モンゴル側と交渉に当たったことが書かれている。

 ネットで調べると、春日さんは、抑留から解放された後、モンゴルの子どもたちを支援する「テムジンの友塾」を開き、日モ交流に尽くしたことがわかる。

 春日さんと「モンゴル会」の仲間である友弘正雄さんは、凍傷のためアムラルト病院で両足切断の手術を受けた。抑留から帰国後、友弘さんは春日さんと同じように、モンゴルの子どもたちのために活動した。このことは、中京テレビのモンゴル人記者が「バヤルタイ〜モンゴル抑留72年越しのさようなら」という番組でレポートした。私はネットで番組を見た。
 
  強制連行、強制労働で多数の犠牲者を出したことは、日本人としては憎悪の対象にもなる負の遺産だと思う。それでも、春日さんや友弘さんが日モ交流に尽力してきたのは、どんな思いだったのか。

 私は、2012年10月、アムラルト病院跡を訪ねた。今にも崩れそうな無残な姿をさらしているのを見て、なんとかならないものかと思った。それが、2018年9月に行ったときは、元の姿に建て替えられていた。診療は再開していなかった。だれが、なんのために、新しく建て替えたのか。何かの記念碑にするつもりなのか。

 2019年10月に訪れたときは、病院と寺院の北側の山に遊歩道が整備されていた。周辺を公園にする計画があることも知った。

 このときは、ダンバダルジャーの西のゲル地区にできた「ノゴーンノール(緑湖)公園」を取材した。日本人捕虜が、スフバートル広場周辺の道路整備などのため、岩山の石を切り出した跡にできた大きな穴に雨水がたまり、ゴミ捨て場になっていたのを、地元民のウルジートクトフさんが、ボランティアで公園に整備していた。彼は「日本人捕虜のことがわかる資料館をつくりたい」と話していた。

 ダンバダルジャーの日本人慰霊碑、アムラルト病院、ノゴーンノールの3カ所は、モンゴル抑留を後世に伝えるためにワンセットでとらえたい。日本人にとっては負の遺産かもしれない。しかし、現在は公園として整備が進んでいる。もしも、ウランバートル市民の憩いの場となったら、モンゴルと日本の交流を示す未来志向の記念碑になるのではないか。山辺さんの本を読んで、そんなことを思った。

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▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。


卒論発表会
【写真】ウランバートルのナランバヤル元校長(中央画面)とオンラインで対話する日本に留学した新モンゴル小中高の卒業生たち=2021年3月29日、東京都江戸川区のタワーホール船堀

 日本の大学や大学院に留学したモンゴルの若者たちが、どんな卒業論文を書いたかを発表し合う勉強会が、3月29日、東京であった。ウランバートルにいる恩師や先輩たち、日本にいてもコロナ禍で出席できない人たちとオンラインで結び、質疑応答も交えて、熱心にやり取りした。

 勉強会を開いたのは、新モンゴル小中高の卒業生たち。毎年3月末、日本の大学を卒業した人たちが集まり、卒業論文を発表してきた。発表会は、卒業式に合わせて来日した校長、父母、日本各地から集まった後輩留学生、支援する日本人ら100人規模の盛大な催しだった。

 しかし、昨年はコロナ禍で中止となった。今年は、同校の創設者で新モンゴル学園理事長と日馬富士学校の校長を務めるガルバドラッハ(愛称ガラー)さんと親交のある日本のロータリークラブ会員有志による奨学金団体「ガラーフェローシップ(GFA)」が協力し、オンライン形式で、GFAの総会も兼ねて復活した。

 卒論発表は、昨年の卒業生も含めて13人が行った。ほかにガラー理事長や先輩の元留学生、GFAを受給している留学生も、日ごろの研究内容を披露した。

 昨年、東京の医薬品開発会社に就職したオチルダリさんは、東大の新領域創成科学研究科の修士論文「微小管阻害薬暴露後のがん微小環境が肺扁平上皮がんの悪性度に与える影響」を発表した。

 今春、群馬大理工学部を卒業したオユンジャルガルさんは「積層式高調波型磁気歯車の減速・動トルクの検証」と題して発表した。彼女は4月から同大の修士課程で勉強を続ける。「将来は人型ロボットに関係した仕事に就ければ」と話している。

 オンラインは、グーグルのミート機能を使って行われた。一部ズームも使った。名古屋、熊本など遠隔地の留学生はオンラインで卒論を発表した。コロナ禍で出席の呼びかけを見合わせた後輩留学生のために、会場の様子はフェイスブックを使ってライブ配信した。

 ガラー理事長は現在、名古屋大学の博士課程に在籍している。この日の勉強会では、「私は58歳の学生です」と前置きしながら、「モンゴルにおける公立学校の経営改善」をテーマに、研究対象として8校を選び、いろいろ調査していることを説明した。
 
 新モンゴル小中高では、日本の大学に私費留学を目指して渡日した卒業生が、受験が山を越した3月、仙台や愛知県岩倉市などに集まり、一緒に寝泊まりして、4月からの新生活に備える「世界一合宿」を行ってきた。昨年はコロナ禍で中止されたが、今年は、寝泊まりしないオンライン形式の「合宿」として復活した。
 
 同校は、日本留学希望者を、ただ片っ端から送り込むことは、していない。入学前の合宿も卒論発表会も、アフタケアをしっかり行うことが狙いだ。

 これまで、日本政府が奨学金を支給する国費留学は、4月はじめの渡日になるので、彼らをどうケアするかが課題だった。しかし、今年はオンライン合宿なので、私費組と国費組が初めて一緒に「合宿」となった。問題は一つクリアしたことになる。



▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

中国人とモンゴル人 (産経NF文庫)
楊 海英
潮書房光人新社
2021-02-25


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まいど、編集長のタケシです。

モンゴル国営テレビによると、モンゴル初のコロナ感染者が確認されたとのこと。感染ルートは、外国からの入国者の隔離施設で働く看護師。

ちなみに、モンゴル政府は高度警戒準備態勢の期限を12月31日まで延長している。年末まで外国人の入国不可。

今後、さらに感染拡大しないか、注目しています。

日本語で化学
【写真】日本語で化学の授業を行うエルデネボロルさん=2019年10月2日、モンゴル国立科学技術大学の高専留学プログラム教室

 モンゴルでは、日本の大学に留学を希望する若者が多い。入試が難しいと言われるモンゴル国立の医科大に入学しても、途中でやめて、日本政府が奨学金を支給する国費留学で、日本の高専に入学したり、私費留学で日本の大学の工学部や農学部に入学する人は多い。
 JICA(国際協力機構)は、モンゴルで工学系高等教育支援事業(1000人のエンジニア)を行っている。その柱の一つに「高専留学プログラム」があり、国立科技大の教室を使って行われている予備教育プログラムを見せてもらった。
 化学の授業を見た。日本留学試験の問題を示し、短時間で回答できるようにする授業だった。凝固点降下、沸点上昇の計算、コロイド分類…。日本人でもなかなか理解できない専門用語を日本語とモンゴル語でたたきこむ。これらの知識は、もちろん、試験対策にとどまらず、日本に留学した後も役に立つ。
 講師のエルデネボロルさんは、新モンゴル高、千葉大工学部共生応用化学科、同大学院修士課程を卒業している。
 エルデネボロルさんと高校同期で、日本政府による国費留学で長野高専と東京電機大を卒業したエルデネジャルガルさんは、物理の授業を担当している。
 二人の話を聞いた。エルデネボロルさんによると、化学の知識ゼロの学生がいるという。「本人の能力というよりも(高卒までの)学校によって化学教育のレベルに差がある」ということのようだ。
 エルデネジャルガルさんも「本当は文系に進みたかったけれど、親に言われてエンジニアを目指しているとか、物理を学ぶ意欲に差がありすぎる」と言う。教員として、二人の悩みは尽きないようだ。
 しかし、それでも、科技大主催の日本語コンテストに優勝する学生もいるそうだ。ここは粘り強く、日本留学の夢をかなえさせるよう、がんばっていくしかない。
 モンゴルは9月が新学期、日本は4月だ。日本留学試験は6月と11月。日本に留学するとなると、2年生の途中になるので、このプログラムは「1年半」の制約がある。高専留学の予備教育プログラムに参加しているのは、1年生が38人、2年生が45人。科技大の学生ではないが、学生と同様の扱いで学んでいる。ほとんどの学生は、日本語を初めて学ぶという。
 日本の高専には3年生からの編入になる。「1年半の教育で、高専の3年間で学ぶ専門の日本語を覚えるのは、学生の負担が大きい」とエルデネジャルガルさんは言う。しかし、エルデネボロルさんは「1年半で、かなりの日本語能力が身につきます」と言う。
 このプログラムで日本に留学した学生の渡航費、授業料、生活費は、モンゴル政府の奨学金で賄われる。半面、モンゴルに帰国して5年間就労しないと、奨学金の返済義務が生じる。制約はある。しかし、日本留学に金銭面の不安はない。
 高専留学プログラムには、予備教育を経ずに留学する「ファストトラック」という制度もある。二人の教員の高校の後輩、ハンガイさんは、「日本語の能力がある」として、直接、鹿児島高専に留学し、都市環境デザイン学科で3年間学んで帰国、ウランバートルの建設会社で構造計算などの仕事に当たっている。
 高校の段階で日本語をしっかりと学ぶ意味は大きいのではないか。取材を進めると、新モンゴル高(新モンゴル小中高)の日本語教育は、モンゴル人自らが、JICAの施策を先取りしたもののように思えてくる。

▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
チンギス・ハンとモンゴル帝国の歩み (フェニックスシリーズ)
ジャック・ウェザーフォード
パンローリング 株式会社
2019-10-12


旋盤
【写真 杙碍阻魅蹇璽織蝓璽ラブから贈られた旋盤のテスト=2019年10月1日、新モンゴル高専
橋のデザイン
【写真◆曚いつかのグループに分かれて、橋のデザインを検討する新モンゴル高専の土木建築工学科の学生(右は国際交流担当のスヘーさん)

 ウランバートルの新モンゴル高専は、機械、土木建築、物質、電気電子の4工学科があり、400人の学生が学んでいる。教職員は51人。
 この学校の特徴について、国際交流担当職員のスヘーさんは「新モンゴル文化」と説明した。新時代に適応した技術者を育てるために「まず人間力を上げることを努力目標にしている」と言う。
 健康であること、知識を深めること、多様性を認識すること、夢を持つこと…。そして何よりも、あいさつすること。当たり前のことだが、「とても大事なことです」とスヘーさん。
 ツェンドスレン校長は「日本ブランドの教育」と表現した。同校長は、2000年に開校した日本式の高校「新モンゴル高」と信州大工学部を卒業している。モンゴル高専の技術移転センター長を務めるガンオドさんとは高校同期だ。
 新モンゴル高は、後に小中高一貫教育の学校になった。さらに2014年、新モンゴル工科大と新モンゴル高専を開校し、「新モンゴル学園」となる。2016年には、日本の幼稚園や保育園にならった新モンゴル子ども園、2018年には姉妹校「日馬富士学校」も開校させた。
 これらの学校は、創設の際、多くの日本人が協力し、金銭的な支援も行った。新モンゴル高専は、佐世保高専と千葉大を卒業した前校長のボヤンジャルガルさんが開校に奔走した。当時の教育相、ガントゥムルさんは、仙台電波高専(現在の仙台高専)と長岡技科大を卒業しており、日本の教育制度に理解があって、計画が大きく進んだ。
 山形北ロータリークラブは、昨年4月、創立50周年を迎えた。これを記念して新モンゴル学園に300万円を贈った。新モンゴル高専は、この資金で、旋盤、プラズマ切断機、フライス盤、誘導電気炉、圧縮機など実習用機材をそろえた。
 山形北ロータリークラブは、新モンゴル学園理事長で日馬富士学校の校長も務めるガルバドラッハさんが、山形大留学生のとき、さまざまな支援を行い、その縁が今も続いている。
 ツェンドスレン校長が言う日本ブランドとは、高専創設の経緯はもちろん、学園としての日本との深いつながりを表している。
 新モンゴル高専の一期生は53人。このうち14人は日本の大学や高専(専攻科)に進学した。2人は中国などに進学。13人が日本企業から内定をもらった。残る24人はモンゴル国内の大学に進学または企業に就職したという。
 新モンゴル高専では、日本の教科書を使うことが多いそうだ。卒業研究も日本の事例を参考にしている。ということで日本語の勉強は欠かせない。
 今年の日本語能力試験には、123人が受験し、45人が合格した。このうちレベルが二番目に高い「N2」は4人という。
 また、日本留学試験に対応した夏休み特訓講座「サマースクール」も実施している。この講座は、もともと新モンゴル高校が2004年から実施しているが、高専も昨年から独自に始めた。日馬富士学校も来年から開講を予定している。
 最後に余談を一つ。10月4日、新モンゴル工科大と新モンゴル高専の開校5周年を祝う合同式典がウランバートル市内で開かれた。来賓祝辞で、モンゴル国立科技大付属高専の副校長を務める久留須誠・佐世保高専名誉教授は、モンゴルに高専ができたいきさつについて話した。その中で、久留須さんは、私が2005年に出版した「モンゴルの日本式高校」を紹介しながら「モンゴルに日本式高校があるのなら、今度は日本式の高専をつくりたいと思った」と話した。
 拙著の紹介は予想外の出来事であり、光栄の至りだった。ただし、久留須さんは、私のことを「山形日日新聞の記者」と説明したのには、まいってしまった。
 私は、式典が終わってから、久留須さんを探し、お礼を申し上げるとともに、「私は、山形日日新聞ではなく、仙台に本社がある河北新報の記者をしておりました」と説明したのだった。




▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
全身全霊 第70代横綱、18年間のけじめ 日馬富士公平
日馬富士 公平
ベースボール・マガジン社
2018-09-27


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