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タグ:新モンゴル日馬富士学校

3月11日夜
【写真 2011年3月11日夜、停電のためロウソクの明かりの下で夕食をとるモンゴル人受験生ら。余震が続き、不安は消えなかった。この後、近くの西多賀小学校の避難所へ行く


 2011年3月の東日本大震災から10年がたった。わが家の隣に空き家となった両親宅があり、当時はモンゴル人20人が合宿していた。日本の大学を受験するため来日した新モンゴル高校の卒業生、指導役の先輩留学生、付き添いの教員らだ。受験生たちは、4月からの新生活に備えるため、3月1日から約3週間の日程で、毎年、仙台で合宿していた。

 大地震のとき、受験生たちは、仙台市の八木山動物公園にいた。東北大を見学し、動物公園を見て、近くの谷口和也・東北大准教授宅で夕食をごちそうになる予定だった。想定外の事態でパーティーは中止となり、受験生らは、谷口先生の妻あゆみさん手作りの料理を持って、仙台・西多賀の合宿所に戻った。

 合宿所は、電気とガスは止まったが、水道は使えた。合宿所の暖房は、古い反射式の石油ストーブ1台のみ。みんな毛布や布団にくるまり、ローソクの明かりの下、夕食となった。余震が続き、不安だった。しかし、谷口さん手作りのひき肉ジャガイモ入りパン、チーズケーキ、チョコレートケーキなどのごちそうを食べ、一息ついた。

 夕食後、20人は、近くの西多賀小学校の体育館に設けられた避難所に行った。その夜、ウランバートルのガルバドラッハ新モンゴル高校長から電話があった。モンゴルでは、津波が、宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)海岸に押し寄せる自衛隊撮影の生々しい映像が衛星放送とケーブルテレビを通じて各家庭に流れ、大きなニュースになっていた。

 ガルバドラッハ校長は「そちらは、テレビが見れますか。私は、NHKをずっと見てます。もし津波が迫っているのがわかったら、知らせるから、すぐに逃げてください」と言った。私は一瞬、ん何?と思ったけれど、「おう、それはありがたい」と返事した。

 午前零時すぎ、東京のモンゴル大使館から電話があった。モンゴル人たちは近くの小学校に避難していて無事だと伝える。全員の名前を知りたいというので、折り返し調べて返事すると伝えた。その後、こちらから電話したが、つながらない。午前4時ごろだったか、やっと20人全員の名前を伝えることができた。

 3月12日午前6時、私は西多賀小学校に行った。受験生らは、炊き出しのワカメ入りご飯を食べ、水洗トイレに使う水をプールから運ぶ手伝いをした後、合宿所に戻った。

 受験生らは、3月12日夜も西多賀小学校の避難所で夜を明かした。合宿所と避難所の往復のとき、彼らは布団、毛布、懐中電灯、石油ストーブ、ラジオなどを手分けして持ち、パッ、パッと運んでしまう。手際の良さは遊牧民の伝統を思わせた。

 3月13日午後、20人は山形県村山市に移動した。村山市国際クラブの皆さんとの2泊3日の交流会が予定されていた。しかし、翌日、受験生らは、JR山形駅前からバスで新潟経由で成田空港へ向かった。モンゴル政府は、自国民を帰国させるためのバス、飛行機を手配しており、仙台と山形の場合は、山形駅前に集合するように言われた。

3月12日朝
【写真◆2011年3月12日朝、避難所から合宿所に戻り、津波の惨状を伝える河北新報を見て沈黙が続く。紙面ではマグニチュード(M)8・8となっているが、その後、気象庁は「M9」と訂正した

 
 3月12日朝の写真に写っている左端の男性は、新モンゴル日馬富士学校で地理を教えるバトドルジさんだ。彼は当時、新モンゴル高校の教員で、大阪教育大に1年半の予定で研修留学中だった。たまたま教え子たちの様子を見に仙台に来て、大震災に遭遇した。

 左から2人目のエンフバートルさんは、3月7日に弘前大合格を決めたばかりだった。彼は弘前大を卒業後、モンゴル外務省の職員になった。

 バトドルジさんは、教え子たちと一緒に山形からバスで成田空港に移動し、帰国する彼らを見送った後、大阪に戻った。「東日本大震災は、私にとっても生まれて初めての忘れられない経験でした。授業ではよく生徒たちに話します」と彼は言う。

 以上は、私が見たり聞いたりしたことのごく一部です。東日本大震災のとき、日本にいたモンゴル人や支援する日本人がどう行動したかについて、詳しくは、拙著「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」の第3章「閖上の海」を見ていただきたい。



▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

〈画文集〉第70代横綱日馬富士 相撲道
橋本 委久子
藤原書店
2018-09-25


旋盤
【写真 杙碍阻魅蹇璽織蝓璽ラブから贈られた旋盤のテスト=2019年10月1日、新モンゴル高専
橋のデザイン
【写真◆曚いつかのグループに分かれて、橋のデザインを検討する新モンゴル高専の土木建築工学科の学生(右は国際交流担当のスヘーさん)

 ウランバートルの新モンゴル高専は、機械、土木建築、物質、電気電子の4工学科があり、400人の学生が学んでいる。教職員は51人。
 この学校の特徴について、国際交流担当職員のスヘーさんは「新モンゴル文化」と説明した。新時代に適応した技術者を育てるために「まず人間力を上げることを努力目標にしている」と言う。
 健康であること、知識を深めること、多様性を認識すること、夢を持つこと…。そして何よりも、あいさつすること。当たり前のことだが、「とても大事なことです」とスヘーさん。
 ツェンドスレン校長は「日本ブランドの教育」と表現した。同校長は、2000年に開校した日本式の高校「新モンゴル高」と信州大工学部を卒業している。モンゴル高専の技術移転センター長を務めるガンオドさんとは高校同期だ。
 新モンゴル高は、後に小中高一貫教育の学校になった。さらに2014年、新モンゴル工科大と新モンゴル高専を開校し、「新モンゴル学園」となる。2016年には、日本の幼稚園や保育園にならった新モンゴル子ども園、2018年には姉妹校「日馬富士学校」も開校させた。
 これらの学校は、創設の際、多くの日本人が協力し、金銭的な支援も行った。新モンゴル高専は、佐世保高専と千葉大を卒業した前校長のボヤンジャルガルさんが開校に奔走した。当時の教育相、ガントゥムルさんは、仙台電波高専(現在の仙台高専)と長岡技科大を卒業しており、日本の教育制度に理解があって、計画が大きく進んだ。
 山形北ロータリークラブは、昨年4月、創立50周年を迎えた。これを記念して新モンゴル学園に300万円を贈った。新モンゴル高専は、この資金で、旋盤、プラズマ切断機、フライス盤、誘導電気炉、圧縮機など実習用機材をそろえた。
 山形北ロータリークラブは、新モンゴル学園理事長で日馬富士学校の校長も務めるガルバドラッハさんが、山形大留学生のとき、さまざまな支援を行い、その縁が今も続いている。
 ツェンドスレン校長が言う日本ブランドとは、高専創設の経緯はもちろん、学園としての日本との深いつながりを表している。
 新モンゴル高専の一期生は53人。このうち14人は日本の大学や高専(専攻科)に進学した。2人は中国などに進学。13人が日本企業から内定をもらった。残る24人はモンゴル国内の大学に進学または企業に就職したという。
 新モンゴル高専では、日本の教科書を使うことが多いそうだ。卒業研究も日本の事例を参考にしている。ということで日本語の勉強は欠かせない。
 今年の日本語能力試験には、123人が受験し、45人が合格した。このうちレベルが二番目に高い「N2」は4人という。
 また、日本留学試験に対応した夏休み特訓講座「サマースクール」も実施している。この講座は、もともと新モンゴル高校が2004年から実施しているが、高専も昨年から独自に始めた。日馬富士学校も来年から開講を予定している。
 最後に余談を一つ。10月4日、新モンゴル工科大と新モンゴル高専の開校5周年を祝う合同式典がウランバートル市内で開かれた。来賓祝辞で、モンゴル国立科技大付属高専の副校長を務める久留須誠・佐世保高専名誉教授は、モンゴルに高専ができたいきさつについて話した。その中で、久留須さんは、私が2005年に出版した「モンゴルの日本式高校」を紹介しながら「モンゴルに日本式高校があるのなら、今度は日本式の高専をつくりたいと思った」と話した。
 拙著の紹介は予想外の出来事であり、光栄の至りだった。ただし、久留須さんは、私のことを「山形日日新聞の記者」と説明したのには、まいってしまった。
 私は、式典が終わってから、久留須さんを探し、お礼を申し上げるとともに、「私は、山形日日新聞ではなく、仙台に本社がある河北新報の記者をしておりました」と説明したのだった。




▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
全身全霊 第70代横綱、18年間のけじめ 日馬富士公平
日馬富士 公平
ベースボール・マガジン社
2018-09-27


教員の日
【写真】生い立ちや教員になった理由などを話すラオグドラムさん(中央)。茲魯淵薀鵐丱筌觜残后2019年10月5日

 新モンゴル小中高の創立19周年の記念式典が10月5日、姉妹校・日馬富士学校の体育館で開かれた。この日は「教員の日」。式典では、校長式辞や来賓祝辞など型通りの行事もあったが、「ゲストティーチャー」として登壇した生徒指導のラオグドラム(LD)さんが、ナランバヤル校長や生徒との間で、なごやかな会話を繰り広げた。
 LDさんは、馬乳酒で有名なブルガン県サイハン村の遊牧民の家庭に生まれた。檀上のスクリーンには、乳しぼりの手伝いをするLDさんの写真が映し出される。大草原を走るトラックの荷台に人がいっぱい乗っている写真もある。「昔はバスなんてなかったんですよ」とLDさんは説明した。
 子どものころから成績が優秀だったLDさんは、会計士を目指してモンゴル国立大の経済学部を受験した。しかし合格できなかった。1年間、遊牧民の生活に戻った後、今度は教育学部に合格できた。その後、「先生になって良かった」という体験談が続く。 LDさんは、教員生活をするうちに、自分の学校を持ちたいと思い、実際に開校した。しかし、資金が足りず、1年で挫折したという。「学校の経営者よりも、教員のままで生きようと思った」と反省の弁を語った。
 なぜ新モンゴル小中高の先生になったのか―。学校経営に失敗し、教育改革のNGOで活動していたとき、当時のガルバドラッハ校長に誘われたからだという。しかし、気が進まず、採用試験の面接の日は、「ノー」と言おうと思って出かけたという。ところが、実際に学校を見せてもらううち、気持ちは「イエス」に変わった。「外国人(日本人)が、親と同ように支援している学校であることを知って、ここで働いてみようと思った」という。
 生徒との質疑応答では、人生相談のような質問も出た。7年生(中2、日本では中1)の女子生徒からの質問だった。
 「最近、母が出産しました。私は3人の弟や妹の面倒をみなければなりません。私は、ほかにやりたいことがいっぱいあるんです。先生、私はどうしたらいいでしょうか」
 LDさんは答えた。「私は子供のころ、いろいろと家の手伝いをしました。あなたも、きょうだいで、できることを分担すれば、きっとできますよ。がんばりましょう」
 LDさんへの感謝の言葉を述べる生徒もいた。「私は、父が交通事故で亡くなったとき、とても悲しかった。収入がなくなり、学校に行けなくなった。そのとき、先生は、奨学金を見つけて、励ましてくれました。先生、あのときは、ありがとうございました」
 LDさんは「私も25歳のとき、父親を亡くしました。あなたの気持ちは、よくわかります。あなたは、よくがんばりましたね」と応じた。
 生徒会の役員をしている生徒も感謝の言葉を述べた。「先生は、生徒指導の文書を、ガラ先生(ガルバドラッハ校長)に出したら、赤い字でいっぱい直されたと言いました。私も、生徒会の文書を先生に見せると、いっぱい直されます。先生、いつも私の文章を直してくれて、ありがとうございます」
 式典の会場は、完成したばかりの姉妹校の体育館。バスケットボールのコート2面が使える立派な施設だ。そこに生徒、教職員、来賓合わせて1000人以上が詰めかけた。新しい施設のこけら落としのような式典だった。
 こんな中、生徒と先生による会話が続いた。私は、そばで聞いていて、ほのぼのとしたアットホームな空気を感じた。すばらしい学校だと思った。
 




▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
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玄関ホール
【写真 杰轡皀鵐乾詁馬富士学校の玄関ホール。横綱・日馬富士の大きな絵が飾ってある


給食
【写真◆枉学4年生の給食。「いただきます」と日本語であいさつしてから食べ始めた。みんな元気いっぱい

日本語の授業
【写真】日本語の授業。数字の数え方を勉強中。黒板の上には横綱4人の写真が飾ってある

 昨年9月、ウランバートル市に開校した「新モンゴル日馬富士学校」に行った。私は、開校式に出席しているが、1年が経過し、どう変わったのかを見てきた。
 訪れたのは10月1日。この日は、モンゴルの敬老の日だった。この学校では、ガルバドラッハ校長ら55歳以上の教職員6人が「お年寄り」として敬愛されていることを祝う行事が行われた。
会場は、創設者・理事長を務める日馬富士(本名ダワーニャム・ビャンバドルジ)さんの部屋。元横綱は、妻と子供3人とともに東京にいるので、理事長室は、幹部職員の会議や来客の応接に使われている。
 「お年寄り」6人は、入り替わり立ち代わり訪れる先生たちと、握手やほおずりを交わす。馬乳酒で乾杯する。テーブルの上には、学校の食堂で作られた料理が並ぶ。音楽の教員が馬頭琴やホーミーを披露する。ウルジーサイハン副校長ら幹部職員は、モンゴルの歌をうたった。最後に、お茶用のポットを贈られて、おひらき。
 この日は、モンゴル各地で、こんな行事が繰り広げられたようだ。日本とは一味違う敬老の日だった。
 本題に戻る。校舎の建設は続いている。大きくA、B、Cの3棟に分かれており、玄関や教職員室があるA棟は、昨年の開校前に完成した。今年は、体育館、図書館、食堂、喫茶室、実験室、部活室のC棟が完成した。部活室の一角には、相撲の土俵もあるが、まだ全部は出来ていなかった。
 B棟の完成は2021年を予定している。完成すれば小学校が移るという。
 玄関ホールに、校舎の完成模型が飾ってある。上から見ると「H」の文字に見える。これは日馬富士の頭文字だ。モンゴル語で新モンゴルの「シ」と「モ」を表す文字と、横綱の土俵入りのポーズも合わせて表現したデザインだという。
 モンゴルは、小学校5年、中学校4年、高校3年の12年制の小中高一貫教育が一般的。日馬富士学校では、今のところ、小5、中4、高3を除く9学年の1180人の生徒が学んでいる。開校1年で、これだけの生徒数は、人気の高さを表しているようだ。
 1階の玄関奥にある食堂で、1年生と4年生の給食を見せてもらった。生徒たちは、鶏肉、マッシュポテト、野菜サラダが載ったプレートとスープを受け取る。席に着くと、「いただきます」と元気な日本語であいさつして、食べ始めた。「いただきます」の平仮名は、食堂の廊下側のガラスにも書かれている。
 外国語は、英語が必修で、小学5年生から学ぶ。第二外国語は、8年生(中3、日本では中2)からで、日本語、中国語、ロシア語から選択するが、ロシア語の希望者はいないそうだ。
 常勤の教員は73人。このうち日本語教員は5人。全員がモンゴル人。非常勤講師の日本人も、ときどき授業を行うという。事務、施設管理などの職員は32人。
 高校の生徒指導を担当するナサンブルマーさんは「生徒には、あいさつする、尊敬し合う、時間を守る、などの基本的なマナーを、しっかりと身につけさせたい」と言う。
 ガルバドラッハ校長は、2000年、モンゴル初の3年制の高校「新モンゴル高」を創設した。同校は、その後、小中高一貫教育の学校になった。2014年には大学と日本式の高専を創設し、モンゴル有数の私立学園「新モンゴル学園」になった。2016年には、日本の幼稚園と保育園にならった子ども園も開園させた。
 ガルバドラッハさんは、日馬富士さんの「モンゴルの将来を担う人材を育てたい」との熱意に賛同し、学校創設に協力して校長に就任した。日馬富士さんの妻は、新モンゴル高と岩手大を卒業している。
 ナサンブルマーさんは「新モンゴル小中高の輝かしい歴史を吸収して発展させたい。同じ料理でも、家庭によって味が異なるように、これから日馬富士学校としての伝統も築いていきたい」と言う。
 新モンゴル小中高では、毎年8月、日本留学試験対策の夏休み特訓講座「サマースクール」を開いている。今年は、日馬富士学校から72人の生徒と10人の教員が参加した。来年は、独自にサマースクールを開講する予定という。




▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

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【写真説明】
日馬富士学校の開校式であいさつする茱咼礇鵐丱疋襯戸事長(元横綱・日馬富士)と蕕魯ルバドラッハ校長(新モンゴル学園理事長)=2018年9月1日、筆者撮影


110日夜、フジテレビが、横綱をやめた日馬富士(本名ビャンバドルジ)さんがウランバートルに学校をつくったことを特集していた。私は昨年91日の開校式に出席したので、番組では触れられていなかったことを中心に、あらためてレポートしたい。

番組では、新モンゴル日馬富士学園となっていたが、日馬富士学校とも言います。日馬富士さんが資金を提供し、新モンゴル学園理事長のガルバドラッハ(愛称ガラ)さんが開校の実務を担い、自ら校長を務めている。

ガラさんは山形大と東北大に留学経験を持つモンゴルの物理教師で、200010月、モンゴル初の3年制の高校「新モンゴル高校」を開校した。高校は、その後、モンゴルでは一般的な小中高一貫教育の学校になった。さらに2014年に大学と高専(日本式の工業高等専門学校)2016年に幼稚園と保育園を合わせた子ども園を併設し、モンゴル有数の私立総合学園になっている。

日馬富士さんの妻は新モンゴル高と岩手大を卒業している。日馬富士さんは、以前から人材育成のための学校創設の構想を持っており、妻の恩師であるガラさんに相談してきた。恩師は横綱の熱意に共感し校長を引き受けた。日馬富士さんは、ふだんは東京にいるので、ガラさんが現地の責任者として経営に当たっている。

日馬富士学校の開校式のテープカットには山形県上山市の長瀬洋子さんが加わった。長瀬さんは、ガラさんが新モンゴル高を創設したとき「柱一本の会」という応援団をつくって募金活動を行い、新モンゴル高の開校式でテープカットしており、今回は18年ぶりの大役となった。

日馬富士学校は多くの日本人が支援して生まれた。番組で紹介されていた通り、学校の空調設備はダイキン製だ。同社の役員は日馬富士後援会の有力メンバーだという。モンゴルの学校でエアコンはとても珍しいそうだ。

番組では建設費は約12億円と紹介していたが、資金捻出は難航したようだ。日馬富士さんは、例の事件で失業したため、銀行が融資を渋ったという。そこで日馬富士後援会の日本人会員が連帯保証人になって、やっと融資が受けられたそうだ。

日馬富士学校の備品は日本から送られたものも多い。20186月の新潟日報ウェブ版によると、新潟県三条市の中学校で使われた中古の机や椅子約270セットが日馬富士学校に送られた。

宮城県岩沼市からは20187月、名取ロータリークラブの協力で金属製の本棚、卓球台、ピアノ、オルガンなどがコンテナ便で送られた。本棚はガラさんの恩師である水原克敏・東北大名誉教授の自宅にあったもので約2万冊を収納できる量だ。私は積み込みのときに手伝ったが、かなりのボリュームで腕が痛くなった。

番組では、日馬富士学校は日本式の教育を目指していると紹介していた。先行する新モンゴル小中高では、数学、理科、英語、音楽などのカリキュラムは日本の教科書を参考にしており、それにならったものだ。新モンゴル小中高では、校歌、制服、給食、部活、三者面談など日本で一般的な教育慣行を多数取り入れている。日本語も第二外国語として教えている。

番組では、日馬富士学校では日本語による「朝のあいさつ運動」が行われていることを紹介していた。この運動は、新モンゴル小中高では、元NHKアナウンサーの宮田修さん(元産経新聞記者とは別人)が提唱して10年以上前から行われている。

新モンゴル小中高の卒業生で日本の大学や高専に進学した人は、学校で把握しているものだけで400人に達している。ほかに学校の進路指導を経ずに自力で日本の大学に留学したり、モンゴルの大学を卒業してから日本の大学院に入学する人も多い。

新モンゴル学園では、ガラ理事長のほか、専務理事、大学の学長、高専の校長、小中高の校長、子ども園の園主は、いずれも日本留学組だ。教員の中にも日本留学経験者は多く、日本人の教員もいる。新モンゴル子ども園は千葉県船橋市の夏見台幼稚園・保育園をモデルに開園した。

日馬富士学校は、今のところ12年制(5、中4、高3)のうち10年生(1)までの740人が学んでいる。将来は幼稚園を開設する予定という。同校は日本式教育を行っているので、将来、新モンゴル小中高のように卒業生の中から日本の大学に入学する人はいっぱい出てくるのではないか。

  

▽森修 もり・しゅう 

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。




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