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タグ:元寇

皆様、こんにちは、ひでです。
久しぶりの寄稿になります。
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令和元年初月になる5月、私は「令和」由来の地、九州・大宰府に行ってきました。

『万葉集』序文にて、大伴旅人が詠んだ「初春令月・気淑風和」が「令和」元号の出典ということで、大宰府は大いに賑わっています。

しかし、大宰府は新元号だけの旧跡ではありません。
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※大宰府政庁跡。古来より「遠の御門と呼ばれている。

特に、日本とモンゴル(実質的にはモンゴル・南宋・高麗の三カ国連合軍)が激しく干戈交えた元寇(文永・弘安の役)においても、大宰府は非常に大きな役割を果たしています。
今回、そのことについて書いておきたい。と思います。

文永の役においては、モンゴルと高麗の使節団が複数回大宰府を訪れ、天皇宛に国書を送っている。(実際には鎌倉幕府の執権が国政を実行)

元寇の始まりは大宰府だったのです。


○ウイキ「元寇」より、実際に使節団が大宰府に来朝した際の記録を列挙します。


・第二回使節

1268年(文永5年・至元 5年)正月、高麗の使節団が大宰府に到来。 大宰府の鎮西奉行・少弐資能は大蒙古  国皇帝奉書(日本側呼称:蒙古国牒状)と高麗国王書状、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取り、鎌倉へ送達する。


・第四回使節

1269年(文永6年・至元6年)9月、捕えた対馬島人の塔二郎と弥二郎らを首都・燕京(後の大都)から護送する名目で使者として高麗人の金有成・高柔らの使節が大宰府守護所に到来。今度の使節はクビライ本人の国書でなく、モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した。


・第五回使節

1271年(文永8年・至元8年)9月、三別抄からの使者が到来した直後に、元使である女真人の趙良弼らがモンゴル帝国への服属を命じる国書を携えて5度目の使節として100人余りを引き連れて到来。クビライは趙良弼らが帰還するまでとして、日本に近い高麗の金州にクルムチ(忽林赤)、王国昌、洪茶丘の軍勢を集結させるなど、今回の使節派遣は軍事力を伴うものであった。
博多湾の今津に上陸した趙良弼は、日本に滞在していた南宋人と三別抄(寄稿者注:モンゴル支配下を由としない高麗の勢力が済州島に樹立した勢力)から妨害を受けながらも大宰府西守護所に到着した。


・第六回使節
1272年(文永9年・至元9年)4月又は12月、元使である女真人の趙良弼らは、日本が元の陣営に加わることを恐れる三別抄の妨害を受けながらも、6度目の使節として再び日本に到来。


しかし遂に使節団の活躍も空しく、1274年(文永11年)、文永の役が火ぶたを切ってしまいます。

文永の役が元軍の敗北に終わると、業を煮やしたフビライの意志により、本格的な日本征服計画をたて軍勢を送ることになりました。

即ち、弘安の役です。


元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000〜56,989人・軍船900艘と、旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人、及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000〜156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航しました。

これは当時、史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であったのです。


その際、大宰府は大軍勢の一軍である「東路軍」の「制圧目標」となります。


以下、ウイキ「元寇」より転載。

 東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した。

しかし、さすがの日本軍も今回の弘安の役において、防備は万全でした。

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※大正時代に建てられた「水城大堤之碑」。
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※水城土塁
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※水城防塁。

それが第一段階である「元寇防塁」の博多湾周辺における建設であり、第二段階としての「水城の修築」でした。


水城城はもともと元寇にさかのぼること600年前、「白村江の戦い」における唐・新羅連合軍の侵略に対する防備として、天智天皇によって建築された防壁です。それが元寇における元・高麗連合軍の侵略の際にも再び威力を発揮することになります。

もし、天智帝が水城を築いていなければ、恐らく文永の役の段階で大宰府はモンゴル・高麗軍の前に陥落していたでしょう。


皆さまも「令和」の聖地を訪ねたついでに、古来より現在に至る日本の安全保障の要諦は九州と朝鮮半島との関係にある。そのことを実感してみて欲しい。

そう願って止みません。


寄稿者:ひで




毎度、編集長のタケシです。
久しぶりに宮脇淳子先生がYoutubeで顔出したと思ったらなんと新書の発表でした。
相変わらず辛口で元気そうでした。

映像で「戦争は義務ではなく権利;軍人を出すことによって儲ける、分け取り合戦」であるという話。アメリカと中国の覇権争いをみれば結局今も変わってないなぁと痛感しました。

蒙古襲来


本書の内容紹介

<蒙古襲来>──海を渡ってやって来たのは本当にモンゴル人だったのか!?

一度目の文永の役(1274年)、ニ度目の弘安の役(1281年)で、日本に「蒙古」から大船団で襲来したとされる人々……
彼らを狒雜兇罵桂劼鬚垢詭餌"という、現代のわれわれがイメージする「モンゴル人」と同一と考えるのは間違いである。
史書『元史』『高麗史』には、当時の船員たちの名が記されている。そのほとんどは高麗人である。つまり元王朝=モンゴル人ではないのである。

「元寇を『蒙古襲来』なのだから爛皀鵐乾訖佑来た"と思い込んでいるのと、今の中国、ロシア、朝鮮の実像を正確に把握できないのとは根が同じような気がしています」(著者)

では、元朝はなぜ高麗人をよこしたのか。
「元寇」をフビライ、ひいては世界史的な目線で、元と高麗を舞台として読み解くと、強国モンゴルに取り入り、「元」の日本遠征に自ら名乗りをあげた当時の高麗と現代の朝鮮半島の姿は、いろいろな面でオーバーラップしてくる。
一方、日本は二度の「元寇」から何を学んだのか。対外的に反省しすぎると世界では犲紊"とみなされることを忘れていないだろうか。
本書では、蒙古、高麗、日本、それぞれにとっての「蒙古襲来」の意義と日本人の誤解を、当時の大陸をとりまく真実の歴史から検証する。
中央アジアの遊牧民を中心に、中国からロシアまで幅広く歴史研究をしてきた著者の真骨頂! 

<本書の構成>
第一章 日本人のモンゴル観
第二章 モンゴルとは
第三章 高麗とは
第四章 蒙古襲来前夜
第五章 大陸から見た元寇
終章 その後

 現在、百田尚樹さんの著書『日本国紀』(幻冬舎)が全国の書店で大ヒットし、インターネット上でも活発な議論や感想が交わされています。その中で、日本とモンゴルの交流史の上で決して外せない元寇の歴史についても9頁にわたって書かれています。

 この中で百田さんは下記のように主張しています。
 最近、歴史教科書では「元寇」や「蒙古襲来」という呼称は、モンゴルや中国に対する侮蔑的な言葉であるから使わないという流れになっているといいう。笑止千万である。歴史用語を現代の感覚で言い換えたり、使用禁止にしたりする行為は、歴史に対する冒涜である。

 本稿ではこの箇所について、筆者の考えをまとめます。
 百田さんが言及された内容はおそらく、2017年の中学校学習指導要領案のパブリックコメントに関することと考えます。この時、学習指導要領案では「元寇」を「モンゴルの襲来(元寇)」と表記する改正案が出ました。筆者もこの時は反対の立場から記事を発表。「モンゴルの襲来」では中国も朝鮮も関係ない、あくまでモンゴルが日本に襲来したという誤ったイメージを増幅しかねないと主張しました。

「元寇」から「モンゴルの襲来」に?中学校学習指導要領案のここが問題
http://mongol.blog.jp/2017/03/06/51929616

 さて本題は、「蒙古」の記述についてです。

 「蒙古」は現在でも中国語でモンゴルを指し、日本でも「日蒙」などの略語に散見されます。
 一方、現在の日本ではモンゴルに対して、「蒙」に悪い意味があるから使用しない、あるいは漢語に依存せずカタカナでモンゴルと表記する(歴史用語や学術用語を除く)ことが、常識になっています。
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デムチュクドンロブ(徳王)

 歴史用語としての「蒙古」は、鎌倉時代の元寇のほかには、昭和期に集中します。
 満洲事変(1931)以後の「満蒙開拓団」、盧溝橋事件(1937)以後にデムチュクドンロブ(徳王)が主席をつとめた「蒙古連盟自治政府」、ノモンハン事件(1939)の「外蒙古」「内蒙古」などが挙げられます。
 一方で、モンゴルを「蒙古」ではなく「モンゴル」とカタカナで表記するのは1949年から60年代にはすでに普及しており、より正確には、漢籍のみに頼らずにモンゴルの研究が始まった明治期から見られています。
 つまり、日本人が日本語としてモンゴルを「蒙古」ではなく「モンゴル」と表記する選択を行っている歴史があるのです。
 このことを、『日本国紀』の読者の皆様にお伝えしたいと思います。


 幸い、『日本国紀』では、下記のように詳述されています。
 文永五年(一二六八)、高麗の使者を介して武力制圧をほのめかした国書を日本に送ってきたのだ。その国書でフビライは「大蒙古国皇帝」を名乗っている。

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「蒙古国牒状」

 当時の日本は漢語の「蒙古国牒状」をもってしか大元大モンゴル国を知ることができなかったため、日本の立場から見た場合は「蒙古」となり、歴史用語となっています。

 さらに『日本国紀』では、「蒙古」と「高麗」と「旧南宋」をしっかり書き分けているため、先述の「元寇」をモンゴルの襲来に改めるという学習指導要領案の問題を把握できる内容にもなっています。

 「蒙古国牒状」が「武力制圧をほのめかした」と解釈された理由には、日本にモンゴルへの服属を勧める「高麗国牒状」が添付されていたこともあります。また、日蓮は一貫して「蒙古」と略せず「大蒙古」の表記を貫いています。日蓮の意図は不明ですが、筆者はそれが漢字の蔑意としての「蒙」「古」ではなく、あくまで実際の国名として記すという意思を感じます。

 北条時宗と鎌倉幕府の決断に関する百田さんの解釈と主張は、是非著書のご購読をもって皆様に考えていただくと、日本とモンゴルの相互理解やモンゴル研究への興味関心が、一層深まると思います。

 モンゴルが現在の日本の友国に至った歴史を、日本人が日本人として自国の歴史に誇りを持つ上でも、大切にしていきたいと思います。

(2018年11月25日 みずばしょう)



参照:
モンゴルは「蒙古」にあらず。日本語の誇りをかけた静かな戦い
http://mongol.blog.jp/archives/51763500.html 



毎度、編集長のタケシです。
私自身、普段から漫画を読んだり、アニメを見たりしないから知らなかったのですが、今放送している「アンゴルモア元寇合戦記」にモンゴルの話が出ていると聞いて調べてみました。

タイトルに元寇と書いてあるから、一瞬でモンゴル襲来の話だと分かりました。

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。
wikipediaより

元との戦いの最前線は、今でいう福岡の博多当たりです。


なお、文永の役の後、日蓮が当時の伝聞を下記のように書き留めています。
「元軍は対馬に上陸後、日本側の武士に勝ち、一般人を蹂躙した。
男は殺戮、あるいは捕虜とし、女は手のひらに穴を開けて鎖で船の壁に繋いだ」

個人的には、原作の漫画も読んでみたいです。




馬頭琴の演奏

アンゴルモア元寇合戦記、もう一つの見ところは4話に、馬頭琴を奏でるシーンがあります。もちろん馬頭琴の美しいメロディーが流れます。



演奏は知り合いのセーンジャーさんだったのです。オリジナル曲なのか、それともモンゴル民謡なのか、見る時にそのへんも注目して欲しい。

テレビで見れなかった方は、アマゾンビデオでも見れるようになっています。


おすすめご参考記事

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【 世界最強・蒙古軍が襲来! 】日本の武士団は、フビライによる元寇に「神風」無しでも勝っていた!?
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▲バクダードを攻めるモンゴル帝国/wikipediaより引用

毎度、編集長のタケシです。
九州大学より非常に興味深い、公開シンポジウム開催のお知らせです。

『「元寇」とイスラーム:モンゴル帝国の拡大がもたらした社会変革と中東』
 
2017年度日本中東学会大会の開催地となる九州大学箱崎キャンパスでは、昨年、中央図書館の敷地内から新たなる元寇防塁が発見されました。日本に襲来し大きな社会変革をもたらしたモンゴル帝国勢力は、中東においても、社会へのダイナミックな影響をもたらしています。本シンポジウムでは、中東と日本が同時代に体験した社会変動の意味を、ユーラシア大陸規模の歴史の展開のなかで考えてみたいと思います。
 
舩田 善之(広島大学・モンゴル帝国史)
「モンゴルの征服と統治―遊牧国家から世界帝国への変貌?」
 
堀本 一繁(福岡市博物館・日本中世史)
「蒙古襲来と異国警固体制」
 
中町 信孝(甲南大学・マムルーク朝史)
「アラブが見た「モンゴル襲来」― アイン・ジャールートからISまで」
 
渡部 良子(東京大学・イルハン朝史)
「イランにおける「モンゴル襲来」― モンゴルによる統治の受容とイメージの変遷」

「第33回年次大会のご案内」より引用

開催日時
2017年5月13日(土)・14日(日)

開催会場
九州大学 箱崎キャンパス 文系地区共通講義棟

準正式プログラム

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