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バイカルの本
【写真 曠丱ぅル桜美林大教授の新著の表紙

 桜美林大学でモンゴルの歴史・文化を教える都馬バイカル教授の新著「スウェーデン宣教師が写した失われたモンゴル」(桜美林大学出版会)が出た。昔のモンゴルの貴重な写真を多数紹介しており、とても興味深い。
 
 写真は、スウェーデン人宣教師のJ・エリクソン(1890―1987年)がモンゴルに滞在していた1913―1938年と1947―1948年に撮影した。彼は、チャハル地域(現在の中国内モンゴル自治区シリンゴル盟とウランチャブ市)で宣教活動していたので、写真は、ほとんど内モンゴルで撮影されたものだが、一部ガンダン寺など現在のウランバートルで撮影されたものもある。これらの写真は、スウェーデンのウプサラ大学図書館に所蔵されており、同大のS・ローゼン教授の手で整理されてきた。
 
 著者は、2018年、ローゼン教授の協力で、1384枚の写真をスキャンし、研究に着手。このうち530枚を抜粋し、「今は無きモンゴル一端」「遊牧生活・家畜」「男女の服装と女性の頭飾り」「徳王と草原の人々」「仏教信仰の実相」「宣教師たちの足跡」の6部構成で編集し、出版した。
 
 最初に紹介されているのは、嗅ぎたばこを交換しながら、あいさつしている写真。著者は「現在の内モンゴルでは完全に消えてしまった」と解説している。
 
 私は2010年1月、ウランバートルで結納式に同席したことがある。式では最初に、新郎と新婦の父親が、嗅ぎたばこを交換しながら、あいさつした。そこはマンションの一室で、両者とも椅子に座っていた。大草原の太陽の下で、またはゲルの中で、このような習慣は今も続いているのだろうか。

だん茶
【写真◆杆之礎磧屬世鹵磧廚鮑佞遊牧民。右手に、小さなうすのような容器があり、これですりつぶしてから湯をそそぐ(66ページ)
 
66ページでは、レンガのような硬い「だん茶」を斧で砕いている写真を紹介している。小さいうすのような容器で、すりつぶしている写真もある。現代では、袋入りのお茶がスーパーなどで売られているので、こんな光景は見られないのではないか。

ゲルの中で食事
【写真】ゲルの中で食事。昔のモンゴルは、日本と同じように、椅子は使わず座卓だ(67ページ)

 ゲルの中での食事の写真もある(67ページ)。椅子に座るのではなく、座卓の前であぐらをかき、茶わんと箸を使って食べている。昔の日本の食事風景に似ている。私は、新モンゴル小中高の年配の教員が、昔の教室を再現した授業を見たことがある。そこでも座卓のような机を使っており、椅子はなかった。
 
 生々しい写真もある。何もない荒野に遺体が横たわっているだけの風葬の写真だ。現代では、土葬か火葬なので、とても貴重な写真だと思う。

 昔の人々が、どのような服装をしていたのかを示す写真は数多い。特に女性の頭飾りなど装飾品を紹介している。乳しぼり、牛ふん拾い、移動の様子など遊牧関係の写真も多い。

 モンゴル国では、ウランバートルなど都市に定住する人が多く、昔ながらの遊牧生活は急速に失われつつある。「ウランバートルはモンゴルではない」と言われたりするほどだ。南モンゴル(内モンゴル)でも遊牧民の定住化は進んでいる。それだけに、昔の写真は、「なつかしい」というだけでなく、記録としての意味は大きい。

▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

卒論発表会
【写真】ウランバートルのナランバヤル元校長(中央画面)とオンラインで対話する日本に留学した新モンゴル小中高の卒業生たち=2021年3月29日、東京都江戸川区のタワーホール船堀

 日本の大学や大学院に留学したモンゴルの若者たちが、どんな卒業論文を書いたかを発表し合う勉強会が、3月29日、東京であった。ウランバートルにいる恩師や先輩たち、日本にいてもコロナ禍で出席できない人たちとオンラインで結び、質疑応答も交えて、熱心にやり取りした。

 勉強会を開いたのは、新モンゴル小中高の卒業生たち。毎年3月末、日本の大学を卒業した人たちが集まり、卒業論文を発表してきた。発表会は、卒業式に合わせて来日した校長、父母、日本各地から集まった後輩留学生、支援する日本人ら100人規模の盛大な催しだった。

 しかし、昨年はコロナ禍で中止となった。今年は、同校の創設者で新モンゴル学園理事長と日馬富士学校の校長を務めるガルバドラッハ(愛称ガラー)さんと親交のある日本のロータリークラブ会員有志による奨学金団体「ガラーフェローシップ(GFA)」が協力し、オンライン形式で、GFAの総会も兼ねて復活した。

 卒論発表は、昨年の卒業生も含めて13人が行った。ほかにガラー理事長や先輩の元留学生、GFAを受給している留学生も、日ごろの研究内容を披露した。

 昨年、東京の医薬品開発会社に就職したオチルダリさんは、東大の新領域創成科学研究科の修士論文「微小管阻害薬暴露後のがん微小環境が肺扁平上皮がんの悪性度に与える影響」を発表した。

 今春、群馬大理工学部を卒業したオユンジャルガルさんは「積層式高調波型磁気歯車の減速・動トルクの検証」と題して発表した。彼女は4月から同大の修士課程で勉強を続ける。「将来は人型ロボットに関係した仕事に就ければ」と話している。

 オンラインは、グーグルのミート機能を使って行われた。一部ズームも使った。名古屋、熊本など遠隔地の留学生はオンラインで卒論を発表した。コロナ禍で出席の呼びかけを見合わせた後輩留学生のために、会場の様子はフェイスブックを使ってライブ配信した。

 ガラー理事長は現在、名古屋大学の博士課程に在籍している。この日の勉強会では、「私は58歳の学生です」と前置きしながら、「モンゴルにおける公立学校の経営改善」をテーマに、研究対象として8校を選び、いろいろ調査していることを説明した。
 
 新モンゴル小中高では、日本の大学に私費留学を目指して渡日した卒業生が、受験が山を越した3月、仙台や愛知県岩倉市などに集まり、一緒に寝泊まりして、4月からの新生活に備える「世界一合宿」を行ってきた。昨年はコロナ禍で中止されたが、今年は、寝泊まりしないオンライン形式の「合宿」として復活した。
 
 同校は、日本留学希望者を、ただ片っ端から送り込むことは、していない。入学前の合宿も卒論発表会も、アフタケアをしっかり行うことが狙いだ。

 これまで、日本政府が奨学金を支給する国費留学は、4月はじめの渡日になるので、彼らをどうケアするかが課題だった。しかし、今年はオンライン合宿なので、私費組と国費組が初めて一緒に「合宿」となった。問題は一つクリアしたことになる。



▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

中国人とモンゴル人 (産経NF文庫)
楊 海英
潮書房光人新社
2021-02-25


ムンフバット
【写真】岩手山に見守られながら羊を世話するムンフバットさん

 岩手大学を卒業したモンゴル人のL・ムンフバットさんは、岩手県滝沢市の岩手山ろくで羊の多頭飼育に挑戦中だ。主にラム肉を生産し、モンゴル伝統のゆで肉料理「チャナスンマッハ」や肉と野菜の蒸し焼き料理「ホロホグ」を日本人に知ってもらおうと計画している。
 
 羊の飼育は、2018年4月、酪農をやめた滝沢市内の牧場を借り、岩手県岩泉町から8頭を導入して始めた。少しずつ飼育数を増やし、今年は60頭になったが、2月、3月は出産期なので、3月11日現在で子羊16頭が生まれ、計76頭だ。近く100頭に増える見込み。
 
 ムンフバットさんは34歳、モンゴル西部のザブハン県生まれ。父親はトラックの運転手をしており、13歳のときウランバートルに引っ越した。祖父母は遊牧民で、子どものころは、夏休みのときなど、馬に乗ったり、羊など家畜の世話を手伝ってきた。
 
 ムンフバットさんは、2009年春、岩手大人文社会科学部に入学し、安田財団の奨学金を得て卒業した。在学中からモンゴル文化を日本人に紹介する活動を続け、卒業直後の2013年5月、滝沢市(当時は滝沢村)の日帰り温泉施設の敷地内に、移動式住居ゲル5棟を設置して宿泊可能な「滝沢モンゴル村」を開業した。
 
 新事業は、株式会社モンゴル未来(資本金600万円)を設立するなど意欲的な展開だったが、温泉の井戸が壊れ、市が復旧を断念したことで、モンゴル村の事業も行き詰まった。ムンフバットさんは、モンゴルの羊毛製品やカシミア製品の輸入販売などを行い、起業精神を維持してきた。
 
 2019年、北海道士別市で1カ月間、羊飼育の研修を受けるなどして、本格的に羊牧場の計画が始まった。士別市は「サフォークランド士別」をキャッチフレーズに、肉質を重視したサフォーク種の羊飼養マニュアルを作るなど、市を挙げて力を入れている。
 
 ムンフバットさんの目標は、100頭規模の牧場を10カ所経営すること。羊は全部で1000頭規模になる。滝沢市は、岩手山ろくの気候風土に合わせて、牧場が発展した歴史があるものの、最近は廃業する農家が多いそうだ。周辺には、独立行政法人の家畜改良センター岩手牧場、岩手大学の農場、盛岡農高、小岩井農場などがあり、農業や牧畜を行う環境は整っている。しかし、最近は、どこも酪農が中心で、羊の飼育はパッとしない。

  ムンフバットさんは、滝沢市商工会の青年部に所属し、会員同士で地域おこしについて話し合っているという。そんな中、牧畜業を立て直し、羊を利用した観光と特産品づくりを進める案が浮上、岩手県立大が取り組む地域協働研究に応募するまでになった。課題名は「持続可能なめん羊牧場経営のための滝沢モデルの構築」だ。
 
 地域おこしの一方、モンゴル人としては、羊肉を使ったモンゴル料理の普及も狙いだ。モンゴル人は肉食民族なので、焼き肉ジンギスカンをふるまわれると喜ぶ。しかし、ジンギスカンは日本料理であり、モンゴル建国の英雄の名称が付けられていることに違和感を示す人もいる。私は、留学生から「おかしいと思いませんか」と不満をぶつけられたことがある。
 
 私は、モンゴル料理のチャナスンマッハやホロホグを何度も食べた。両方とも、ジンギスカンに負けないぐらいに、日本人の口に合うと思う。ムンフバットさんは「日本で出回っている羊肉は、ほとんど輸入品。日本産の羊肉を、もっと日本人に食べてもらいたい」と言う。
 
 ムンフバットさんの妻ミシェルさんは、新モンゴル高の後輩で岩手大工学部を卒業し、北海道の建設会社を経て、現在は岩手県庁で土木行政に携わっている。夫婦で日本永住権を取得した。昨年8月、盛岡市内にマイホームを新築した。長男は4月から小学校の1年生だ。5月には3人目の子が生まれる。
 
 羊牧場は、間もなく出産期が終わり、5月は毛刈りが始まる。その後は牧草の刈り取りだ。ムンフバットさんは、これから公私ともに忙しい日々が続く。



▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

世界の食文化 (3) モンゴル
小長谷 有紀
農山漁村文化協会
2005-06-01


3月11日夜
【写真 2011年3月11日夜、停電のためロウソクの明かりの下で夕食をとるモンゴル人受験生ら。余震が続き、不安は消えなかった。この後、近くの西多賀小学校の避難所へ行く


 2011年3月の東日本大震災から10年がたった。わが家の隣に空き家となった両親宅があり、当時はモンゴル人20人が合宿していた。日本の大学を受験するため来日した新モンゴル高校の卒業生、指導役の先輩留学生、付き添いの教員らだ。受験生たちは、4月からの新生活に備えるため、3月1日から約3週間の日程で、毎年、仙台で合宿していた。

 大地震のとき、受験生たちは、仙台市の八木山動物公園にいた。東北大を見学し、動物公園を見て、近くの谷口和也・東北大准教授宅で夕食をごちそうになる予定だった。想定外の事態でパーティーは中止となり、受験生らは、谷口先生の妻あゆみさん手作りの料理を持って、仙台・西多賀の合宿所に戻った。

 合宿所は、電気とガスは止まったが、水道は使えた。合宿所の暖房は、古い反射式の石油ストーブ1台のみ。みんな毛布や布団にくるまり、ローソクの明かりの下、夕食となった。余震が続き、不安だった。しかし、谷口さん手作りのひき肉ジャガイモ入りパン、チーズケーキ、チョコレートケーキなどのごちそうを食べ、一息ついた。

 夕食後、20人は、近くの西多賀小学校の体育館に設けられた避難所に行った。その夜、ウランバートルのガルバドラッハ新モンゴル高校長から電話があった。モンゴルでは、津波が、宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)海岸に押し寄せる自衛隊撮影の生々しい映像が衛星放送とケーブルテレビを通じて各家庭に流れ、大きなニュースになっていた。

 ガルバドラッハ校長は「そちらは、テレビが見れますか。私は、NHKをずっと見てます。もし津波が迫っているのがわかったら、知らせるから、すぐに逃げてください」と言った。私は一瞬、ん何?と思ったけれど、「おう、それはありがたい」と返事した。

 午前零時すぎ、東京のモンゴル大使館から電話があった。モンゴル人たちは近くの小学校に避難していて無事だと伝える。全員の名前を知りたいというので、折り返し調べて返事すると伝えた。その後、こちらから電話したが、つながらない。午前4時ごろだったか、やっと20人全員の名前を伝えることができた。

 3月12日午前6時、私は西多賀小学校に行った。受験生らは、炊き出しのワカメ入りご飯を食べ、水洗トイレに使う水をプールから運ぶ手伝いをした後、合宿所に戻った。

 受験生らは、3月12日夜も西多賀小学校の避難所で夜を明かした。合宿所と避難所の往復のとき、彼らは布団、毛布、懐中電灯、石油ストーブ、ラジオなどを手分けして持ち、パッ、パッと運んでしまう。手際の良さは遊牧民の伝統を思わせた。

 3月13日午後、20人は山形県村山市に移動した。村山市国際クラブの皆さんとの2泊3日の交流会が予定されていた。しかし、翌日、受験生らは、JR山形駅前からバスで新潟経由で成田空港へ向かった。モンゴル政府は、自国民を帰国させるためのバス、飛行機を手配しており、仙台と山形の場合は、山形駅前に集合するように言われた。

3月12日朝
【写真◆2011年3月12日朝、避難所から合宿所に戻り、津波の惨状を伝える河北新報を見て沈黙が続く。紙面ではマグニチュード(M)8・8となっているが、その後、気象庁は「M9」と訂正した

 
 3月12日朝の写真に写っている左端の男性は、新モンゴル日馬富士学校で地理を教えるバトドルジさんだ。彼は当時、新モンゴル高校の教員で、大阪教育大に1年半の予定で研修留学中だった。たまたま教え子たちの様子を見に仙台に来て、大震災に遭遇した。

 左から2人目のエンフバートルさんは、3月7日に弘前大合格を決めたばかりだった。彼は弘前大を卒業後、モンゴル外務省の職員になった。

 バトドルジさんは、教え子たちと一緒に山形からバスで成田空港に移動し、帰国する彼らを見送った後、大阪に戻った。「東日本大震災は、私にとっても生まれて初めての忘れられない経験でした。授業ではよく生徒たちに話します」と彼は言う。

 以上は、私が見たり聞いたりしたことのごく一部です。東日本大震災のとき、日本にいたモンゴル人や支援する日本人がどう行動したかについて、詳しくは、拙著「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」の第3章「閖上の海」を見ていただきたい。



▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

〈画文集〉第70代横綱日馬富士 相撲道
橋本 委久子
藤原書店
2018-09-25


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まいど、編集長のタケシです。

先日、モンゴルの歴史家と言語学者とたちといろいろ話をしました。
その話のポイントをみなさんにシェアさせて頂きます。

なお、当サイトでは15年前から運営してきました。
そのため「南モンゴル」を「内モンゴル」と表記してたのですが、これからは正式に「南モンゴル」と書くようにします。


南モンゴルと内モンゴルの違いとは?


モンゴルのキリル文字の歴史はたったの80年。
しかし、その影響が大きい。

例えば:
南モンゴルはモンゴル語でӨвөр Монголと言う!
今となってӨмнөд Монголという人もいる。そもそもӨвөрという文字はӨмнөの意味がある。

では、なぜ
ӨвөрではなくӨмнөというのか?

かんたんに言うと、他言語で書かれた資料や論文をモンゴルのキリル文字に翻訳したからだと言われている。

英語の場合、
Өвөр МонголはSouth Mongoliaになる。
そして、
South直訳するとӨмнөдになる。

翻訳の翻訳になったわけだ。


日本語でモンゴルを蒙古と表記しないように友人の学者が動いて、努力した結果ほぼ浸透したようだ。
心より感謝。

南モンゴルを中国の公式文書やパスポートでは英語でInnner Mongoliaと表記している。そのため、モンゴルを外モンゴルという人が出てきた。


南モンゴル、正式に英語表記ではSouth Mongoliaになる。モンゴルはMongoliaでいいのだ。内モンゴル、外モンゴルという言い方をなるべくしないようにと、最近の傾向である。内、外というのは政治的な洗脳、戦略の謳い文句である。

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まとめると

・日本語
南モンゴル(内モンゴルは禁止)

・英語
South Mongolia(Innner Mongoliaは禁止)

・モンゴル語
Өвөр Монгол(Өмнөд Монголは禁止)

とくに、情報発信する人、新聞やテレビなどメディアの方は表記を注意してください。

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