モンゴル情報クローズアップ!

モンゴルの文化、ビジネス、投資、観光、最新話題など幅広い情報をお届けします。(通称:モンゴルなう)

カテゴリ: 政治

MongolMeaning
ケンブリッジ英英辞書のMongolより、モンゴルの第二の意味で「ダウン症を持つ人に対する非常に攻撃的な言葉」と定義している。

※不快になる話ですが、こういう偏見が存在しているというのを事前に知っておく必要はあるかと思います。いざ偏見や差別に対峙したとき、どう対応するか心の準備ができるようになるためです。


ちょっと前の話ですが、ベルギー出身のレッドブルに所属するF1レーサーのマックス・フェルスタッペン氏のレース中での発言が物議を醸しだしました。

彼がレース中に他のレーサーと衝突をしてしまった際に、罵る言葉として「Mongol(モンゴル:知恵遅れ)」、「Retarded(馬鹿野郎、知恵遅れ)」と言ってしまいました。その件が明るみに出て、モンゴル政府が国連を通して、レッドブルにクレームを出したとのことです。

ニュース記事(日本語):
F1エミリア・ロマーニャGP金曜会見(2):フェルスタッペンが接触時の暴言を謝罪「ランスを侮辱する意図はなかった」


ニュース記事(英語):
Max Verstappen: Mongolian government registers official complaint with UN against Red Bull driver’s ‘mongol’ comments at Portuguese GP


Red Bull warns Verstappen over mongol insult


侮辱後が伏せられていますが、これが実際のレースの様子らしいです(YouTube)


そもそも、なぜ「モンゴル」という単語が「Retarded」あるいは「Basterd」みたいな行儀の悪い意味で使われるのか、よくわかりませんでした。

素朴に、なぜ?と疑問に思いました。

調べてみると、イギリスの新聞紙The Independent(インディペンデント)にて、英国に住むモンゴル人によって体験談を踏まえて詳しく書かれていました。

以下、拙訳です。


なぜ『モンゴル』『モンゴロイド』『モンジー』という言葉が、いまだに侮辱の意味で使われているのか?」Why are the words 'mongol', 'mongoloid' and 'mongy' still bandied about as insults?



https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/tv/features/why-are-words-mongol-mongoloid-and-mongy-still-bandied-about-insults-9878557.html

在英のモンゴル人女性・ウガナー・ラムジーさんは、彼女の息子のようなダウン症の人たちだけでなく、彼女の民族の誇りである名前がどのようにして攻撃的な言葉として使われるようになったのかを探る。


↑ウガナー・ラムジーさんのTwitterアカウント

4年前にスコットランドの病院で次男を出産したウガナー・ラムジーさんは、「何かがおかしい」と言われた。いくつかのテストの後、彼女と彼女の夫であるハワードは、彼らの新生児ビリー君は余分な染色体を持っていたことを知らされ、ダウン症候群と診断された。

夫婦はひどく打ちひしがれた。ようやく家に帰ることができたとき、医師はラムジーさんを個人的な話をするために残した。医師は、彼女を慰めようと、モンゴル生まれのラムジーさんに対して「おそらくダウン症は、彼女のモンゴル人の民族性のためにビリー君の外観にはそれほど目立たないだろう」と言い放った。

「それは私を不快にさせた 。」とラムジーさん(37歳)は言う。「私は傷ついた。私は彼らがその言葉で慰めになることを意味していることを知っていたとしても。」 それは、ラムジーさんの先住民族であるモンゴロイドと障害者の俗語との間に見知らぬ人が作った、多く連なる連想であった。

モンゴル、モンゴロイド、モンジー − これらは、ダウン症の人だけでなく、特別な障害を持つ人に対しても、愚人を攻撃する言葉と同様に、侮辱として使われ続けている。しかし、この連想はどこから来たのか?そして、それがモンゴル人にどのような影響を与えたのか?その答えを探すために、ラムジーさんはドキュメンタリー「The Meaning of Mongol」を制作し、今晩BBCラジオ4で放送している。



結局のところ、この言い回しはイギリスだけで使われているわけではない。ラムジーさんは、モンゴルはすべての大陸の20カ国以上で軽蔑的な言葉であることを指摘している。

彼女が「モンゴル」が別の意味を持っていることを初めて知ったのは19歳の時であった。ラムジーさんは英語を学びながら、育った西モンゴルのザヴハンで羊やヤギを放牧していた時、辞書を持ち出していた。言葉は彼女を魅了していた。ある日、彼女はモンゴル語を調べた。「モンゴルの人々」という一次的な意味だけでなく、その下には二次的な使い方があった。それは障害、特にダウン症に関係していた。

MongolMeaning
ケンブリッジ英英辞書のMongolより

「それはとても鮮明に覚えています」と彼女は振り返る。「私の民族を表す言葉が、別の意味を持っていることに違和感を覚えました。私は本当に理解できませんでした。それは私を不安にさせました。もっと知りたいと思ったが、私は10代だったので、そのままにしておきました。」

数年後、ラムジーさんはロンドンで外国語として英語を教える勉強をしていた。ある日、中国とフランスから来た二人のクラスメートが彼女に声をかけてきた。「モンゴルから来た人があなたのように普通で賢いとは知らなかったわ」と言われた。彼女は彼らが何を意味しているのかわからなかったし、彼女はそれを笑い飛ばした。

その後、彼女がスコットランドでキャリアアドバイザーとして働き始めたとき、教室や運動場で子供たちが侮辱として「モンゴル」という言葉を投げかけているのを聞いた。

「なぜ彼らがこのようなことを言っているのかを探ろうとしましたが、同僚は説明してくれませんでした」と彼女は言う。ラムジーさんが再びこの違和感のある連想に出くわしたことを、ビリー君の診断後、彼女はダウン症について読み上げていたときの出来事であった。

ダウン症の用語としてモンゴロイドやモンゴロイドが使われるようになったのは、1860年代にジョン・ラングドン・ダウンという医師が『Observations on an Ethnic Classification of Idiots(馬鹿の民族分類に関する考察)』という論文を発表したときのことで、彼はこの論文の中で、異なる種類の疾患を民族的特徴によって分類することが可能であると主張している。

Portrait_of_John_Langdon_Down_(c_1870)_by_Sydney_Hodges
ジョン・ラングドン・ダウン(John Langdon Haydon Down)
John_Down,_Observations
↑※ひどい内容ですが、この論文の英語の原典はNatureの以下のサイトで閲覧することができます:
OBSERVATIONS ON AN ETHNICCLASSIFICATION OF IDIOTS


それ以前は、ダウン症の人は単に「idiot(バカ)」と分類されていた。ラムジーさんのドキュメンタリーの中で、ダウンの伝記作家であるコナー・ウォード教授は、ダウンが優れた衛生士であり、学習障害を持つ人々のために王立アールズウッド養護施設(Royal Earlswood Asylum for Idiots)に採用された経緯を説明している。

ダウンは、彼が治療していた人々のグループに共通の外観を持っていることに気付き、その時に「モンゴル人の愚鈍性」という診断を下した。

1866年の論文の中で、ダウンは次のように書いている:「モンゴル人の大家族には、(彼の患者の中に)多数の代表者がいて、私がこの論文で特別な注意を払いたいのは、この分割についてである。非常に多くの先天性の馬鹿者は典型的なモンゴル人である(A very large number of congenital idiots are typical Mongols)。このことは、比較して見ると、比較された標本が同じ親の子供ではないとは思えないほど顕著である。」

他の箇所では、彼は頬の丸み、目の形、その他様々な身体的特徴について書いており、このグループの子供たちはモンゴル民族のタイプへの回帰であることを示唆している。アールズウッド養護施設でモンゴル民族の誰もが治療を受けたことを示唆する記録はない。

後にダウンは自分の研究を疑った。彼は10年の研究の後、骨相学への信念を捨て、人の性格や知性は頭の形や外見から推測できるという見解に背を向けていた。

しかし、彼の言葉の造語は続いた。

ダウンの同時代人たちも彼の理論に懐疑的で、医学論文では『いわゆるモンゴルの馬鹿(so-called Mongolian idiot)』という言葉を使うようになった。それからの100年間、ダウン症の人を表現するのにモンゴルが使われていた。

1959年にフランスの遺伝学者ジェローム・ルジューヌ(Jerome Lejeune)がダウン症の原因(21番染色体の余分なコピー)を発見した後、医学者たちがモンゴロイドやモンゴロイドとは別の用語を使うことを提案しはじめた。当時の著名な遺伝学者たちは(ダウン氏自身の孫を含む)、この用語が東洋の人種への軽蔑的なものであることを主張して、ランセット誌、世界有数の医学雑誌に共同で手紙を書き、この前提のための新しい名前を要求した。

モンゴル政府自身も見直しを求めた。モンゴル政府は1961年に国連に加盟した後、1965年に世界保健機関(WHO)に加盟し、「モンゴロイド」という名称の変更を求めた。それ以来、この障害は「ダウン症」と呼ばれるようになった。

「モンゴル」や「モンゴロイド」は1980年代までイギリスの病院で使われ続けた。ドキュメンタリーの中で、作家で映画監督のサラ・ボストンは、1975年に出産し、医師が 「あなたの子供はモンゴロイドです」と言って赤ちゃんを手渡したことを回想している。彼女がダウン症の子供を育てた経験についての本を書いたとき、出版社はタイトルに「モンゴル」という言葉を使いたがった。1991年のことである。

今でもモンゴロイドという言葉は、虐待や障害者への侮辱として使われてる。 リッキー・ガーヴェイスは2011年に 「ギャグ 」をリツイートして炎上した。「二人のMongs(モンゴル)が右に曲がることはない」とリツイートしたことで炎上した。彼は謝罪を拒否し、コメディーショー(スタンドアップ・ルーティン)にMong(モンゴル)を題材にした寸劇を追加したこともあった。結局、世間からの圧力を受けて、彼は身を引いて、この言葉を使ったことが間違いだったことを認めた。


↑Dailymail紙による炎上に関する記事

article-2050854-0E72C12F00000578-238_468x348
↑炎上した リッキー・ガーヴェイスによるツイート(出典:Dailymailより)。上から「二人のモンゴル人は右に曲がれない。はは。この問題について最後の言葉だ。お疲れさん。」「モンゴルは『かつて』ダウン症の蔑称だったこと、ゲイは『かつて』幸せの意味だったことを指摘したみんな、よくやった。言葉は変わる。よろしくな。」「全ての知り合いのモンゴル人のためにリツイートしてくれ、あとモンゴル人をクソ黙らせろ」「モンゴルがなんだって?、のろまで、馬鹿な奴らのことだろ。俺はこの言葉をダウン症の意味で絶対に使わないけどな。」


↑Dailymail紙にて障害を持つ子供の母親が泣いたことを受けて「障害を持つ人たちを侮辱することに気付かず、この言葉を使うことに私は無頓着だった。」と謝罪をしている。しかし、この記事の中でモンゴル人やモンゴル政府に対して謝罪の言葉は一言も触れられていない。さらに、障害を持つ親ですらも「自分の娘が馬鹿にされている」とまで言っている始末である。

ラムジーさんにとって、祖国の人々の名前が不快な俗語にもなっている国で暮らすことは難しいことであった。彼女はダウン症スコットランドが実施した調査に関わるようになり、この言葉の使用がまだ10代の若者の間で流行っていることが分かった。「それは私を不快に感じさせ、動揺させた」と彼女は言う。「それは軽蔑的だった。モンゴル人と自己紹介している場合、人々はそれを違った聞き方をします。それは、人々が笑うので、自信に大きな影響を与えます。それはもう同じ言葉ではありません。」

そんな気持ちから逃れ、かつてのモンゴル人であることへの誇りを取り戻そうと、ラムジーさんは9月に8年ぶりに故郷に戻ってきた。彼女の訪問はドキュメンタリーの中で捉えられており、モンゴルの人々の気迫のこもった姿が描かれている。ラムジーさんにとって、モンゴル人に対する既存のネガティブなイメージを払拭するためには、彼女の同胞と女性の真実の描写を提示することが重要であった。

国連のページにあるPDFファイルのリンク:
Side event dedicated to the World Down Syndrome Day and CSW 60"Changing stereotypes against people with Down syndrome:THE MEANING OF MONGOL" 

Screenshot 2020-11-09 001257


モンゴルの文化・スポーツ・観光大臣であるオユンゲレル・ツェデブダンバ(Оюунгэрэл Цэдэвдамба)氏はドキュメンタリーの中で、「モンゴル人は皆、自由を愛する民族です。」と言う。

この国の変化に富んだ風景には、なだらかな台地、砂丘、高山の森、氷河などがあり、ドキュメンタリーの中では、一連の撮影を通して、その姿が浮かび上がってくる。ラムジーさんは家族や友人を訪ね、ウォッカを飲み、馬糞(アルガル)を燃やして火を起こす。ラムジーさんは、人々がお互いの家を訪問するときに乳製品をお土産に持ってくるのは、白が純粋さと無邪気さを表しているからだと話している。

「他の場所と同じように、幸せな人と不機嫌な人がいます。」「でも、空はいつも青くて晴れていて、それが人々を少しだけ幸せにしてくれると思います。そして夜になると、そこでは最も多くの星を見ることができます」。

ラムジーさんの息子ビリー君は、生後わずか3ヶ月まで生きた。ドキュメンタリーの中の感動的なシーンの一つで、彼女はザブハンの家族に息子の写真を見せている。

「モンゴルでは誰かが亡くなると、その人は神になると言われています。」

ほとんどのモンゴル人は、世界的にモンゴル語が広く使われていることを知らない。「しかし、モンゴルでは誰もがモンゴル人なので、そのような問題に直面することはありません」とツェデバンバは指摘する。

ラムジーさんは、モンゴル語のスラングをやめさせたいと考えている。それは、彼女のためにも。

The Meaning of Mongolは月曜日の夜8時からBBCラジオ4で放送されています。(以下はポッドキャストのリンクです。番組を聞くことができます。英語の勉強にどうぞ。)



【筆者コメント】
なかなか衝撃的なのが、権威ある医者が堂々とIdiot(馬鹿者)やIdiocy(馬鹿、愚鈍)という言葉を論文に記載して発表して、それが受け入れられていたという点です。このため、モンゴル→ダウン症っぽい→だから馬鹿、というありえない、差別的な考えが広まってしまった結果になったと言えます。

160年前に英国の医者がこういってしまったために広がったMongolというダウン症を指す表現ですが、徐々に改善はされていますが、まだ2020年になっても罵り言葉で出てくるぐらいですから、この問題は根深いかと思われます。

また、子供を持つ親としても、ダウン症の子供が生まれたときどう接していくべきか、どう対応はしてくべきか、どう向き合うべきか、という心配もあるかと思います。

公益財団法人日本ダウン症協会は、以下のようにダウン症について説明しています:

Q1:ダウン症は病気ですか?
人間は一人ひとり、違いをもっています。ダウン症は、生まれつきの特性(性格や体質のようなもの)の一つと考えたほうがいいと思います。

Q2:なぜダウン症になるのですか?
私たちの体のたくさんの細胞の中には、46本の「染色体」というものが入っています。たまたまそれを47本もって生まれてきたのが、ダウン症のある人たちです。
偶発的に起こることがほとんどで、誰にでも起こり得ることです。600〜800人に1人の割合で生まれるとされています(引用元:小児慢性特定疾病情報センター)。

出典:公益財団法人日本ダウン症協会「ダウン症のあるお子さんを授かったご家族へ」より

欧州にいると、依然としてアジア人に対して見下したり、馬鹿にする人がたまにいますが、科学的根拠を以て、堂々と毅然とした態度で諭してあげる必要があると思います。

残念ながら、ドイツ語の辞書DUDENでも、Mongolchenという単語は、ダウン症を伴う子供という意味で説明されていますが、Educalingoというサイトで「蔑称的な下地のために今日では陳腐化している」という説明でとどまっています。
Screenshot 2020-11-09 004523
↑Educalingoよりhttps://educalingo.com/de/dic-de/mongolchen

しかし、たちが悪いのが、上述したF1レーサーやコメディアンからあるように、彼らは非があってもまず謝らないところがあります。すぐに泣き寝入りせず、あくまで論理的に客観的に証拠をもって毅然として対応する必要があるかと思われます。

日本人、韓国人、中国人、モンゴル人、これらの国の人たちはヨーロッパ人からすると見た目が似ているので、それだけで理不尽な目に遭うことがありますが、各自の文化に誇りをもって臨むべきでしょう。

また、筆者も親として3ヶ月で夭折したビリー君、また上のリンクに出てくるダウン症の子供たちどの子をを見ても可愛いと思えます。

今回は、ここまで。

v2ye7x_imported_image_x974

まいど、編集長のタケシです。

バイクで日本一周,北海道半周して来ました。
残りの行ってないところはまた時間ある時に行きます。
恐らく来年になるかなと思います。

こちらのブログはあまり更新してないが、もう一つの旅サイトとYouTubeはかなり頑張っています。w

では、今週の重要なニュースを取り上げたいと思います。


ポンペオ国務長官のモンゴル訪問中止に!


米国のポンペオ国務長官が4〜8日にて、日本・韓国・モンゴル訪問を訪問するでしたが、ご自身のコロナ陽性反応で韓国とモンゴルはとりやめました。


EjuRulpU4AA5s13

本日、モンゴル大統領と電話会談したことをTwitterで公表しました。



しかし、モンゴルのニュースサイトを見ると、タイトルが
「米国国務長官マイクポンペオは、モンゴルへの訪問を延期したことをお詫びします」になっています。

АНУ-ын Төрийн нарийн бичгийн дарга Майк Помпео Монгол Улсад хийх айлчлалаа хойшлуулах болсондоо хүлцэл өчиж, утсаар ярилаа  https://ikon.mn/n/205w

そもそものモンゴル訪問中止になったはずですが、延期と書いてあります。恐らくフェイクです。


内モンゴルを知るための60章 (エリア・スタディーズ)
ボルジギン ブレンサイン
明石書店
2015-08-01



茂木外務大臣のモンゴル訪問!


10月9日から10日まで、茂木敏充外務大臣はウランバートルを訪問します。

モンゴルのエンフタイワン外相との会談で、拉致問題を含む北朝鮮情勢をめぐって、意見を交わすそうです。



これまで拉致問題で、日本の大臣公費でモンゴルに何回も行っていますが、成果ありましたか?非常に疑問に思います。

成果がないから行くなぁという意味ではなく、成果がないなら今までと違う方法でアプローチするべきだと思います。



unnamed

まいど、編集長のタケシです。

現在の公文がキリル文字のみになっていますが、モンゴル政府は2025年から現在内モンゴルで使われているモンゴル文字を、キリル文字と併用して全面的に使うと発表しました。

徐々にモンゴル文字の復活と普及に取り込んでいくそうです。



モンゴル文字を失った経緯とは?


646b102ffc86e0c17f7590062a996514

1921年、モンゴルはソビエト連邦の「支援」により独立しました。その後、ソビエト連邦は部隊を駐留させ、モンゴルの内政と外交も支配するようになりました。

そのため、ソビエト連邦は領土内の多くの地域に言語政策を実施しました。

モンゴルが、今のキリル文字に変わったのはこういう背景があるからです。

aaaaaaaaaaaa

モンゴル文字からラテン文字、そしてキリル文字に変えていきました。

1931年、モンゴル人民共和国はモンゴル語のラテン語化の決定を採択し、その後10年間で、モンゴルで出版された本の中にウイグル文字、ラテン文字、キリル文字などのモンゴル語が共存しました。

しかし、1941年からキリル文字に統一され、伝統的なウイグル文字のモンゴル文字が消えてしましました。


08_coa_40

ウイグル文字の使用の減少により、キリル文字モンゴル文字の普及を促進する過程で、多くのモンゴル国民は以前の歴史文書を読むことが困難になります。さらに、キリル文字モンゴル語の​​綴りの基礎は、モンゴルで一般的に使用されるカルカ方言です。その過程で、キリル文字モンゴル語に多数のロシア語が追加されました。

言語の変更は、伝統的なモンゴル語の​​意味合いに影響を与えました。

モンゴル文字を復活の取り込みとは?



1990年代、ソビエト連邦の崩壊により、モンゴルの伝統的な言語を回復することを支持するモンゴルの声が強くなりました。 1992年、モンゴル国大議会は、モンゴルが徐々にモンゴルに戻ることを発表しました。

2016062319130419a

2003年、モンゴルは、毎年5月の第1週に「エスニックライティングカルチャーフェスティバル」を開催すると発表しました。 2014年、モンゴルは中国内モンゴル自治区の書道協会の会員も招待しました。モンゴルの小学生の最初の週である2009年には、当時のエルベグドルジ大統領も国営ラジオ局で生放送し、ウイグル文字で書かれた「馬」の意味を伝え、この伝統的な台本の重要性を強調しました。 


f6a5186f491fa2bf481f3397d3283012


2011年、モンゴルは、政府のメンバーと国際機関が海外の同じレベルの職員と通信する場合、公式文書と手紙はモンゴル語でなければならないことを規定しました。

モンゴル国民の出生証明書、結婚証明書、あらゆるレベルの教育機関が発行する関連証明書、および卒業証明書も、ウイグル語モンゴル語とキリル文字モンゴル語で並べて書かなければなりません、など。

IMG_1946


モンゴル文字が復活すれば、TwitterやFBでモンゴルの情報がたくさん出てくるかもしれないね。今のところはミスターモンゴルの情報しかありません。(笑)




image

毎度、編集のタケシです。
モンゴル大統領選、バトトルガ氏が勝ちましたね。本当におめでとう!!今朝は速報でTwitterで流しちゃったのですが、改めブログに転載します。

モンゴル総選挙、有権者投票率は以下の通り:
21 aimag(地方)の参加率は58.35%、ウランバートル市の投票率は62.85%に達したのこと。したがって、モンゴルの有権者投票率は60.41パーセントであり、再投票が行われないことを意味する。

民主党Kh.Battulgaの候補者がレースをリードしている。Kh.Battulga、民主党の候補者は50.63パーセント(608,552票)を獲得し、モンゴルの人民党の候補者であるM.Enkhboldが41.16%(494,696票)を獲得した。

明日は午前10時頃に海外に住むモンゴル国民の投票用紙がモンゴルに到着し、午後12時頃に完成予定だ。一方、約98,200人の有権者が空白の投票用紙を投じた。

出典 GOGOニュースより


イギリスの高級紙 The Economistより、内モンゴルについて結構気合の入った記事が書かれていました。

DSC06363


Herding mentality
Inner Mongolia has become China’s model of assimilation
But Chinese Mongolians are still asserting their identity

以下、日本語による拙訳となります。一部不快に思われる表現がありますが、直訳とさせていただきます。


遊牧の精神
内モンゴルは中国の同化モデルであった
しかし中国のモンゴル人は依然として彼らのアイデンティティを主張している

バイン(Bayin)は、内モンゴル東部の草原から数百万人の都市であるチフェン(赤峰市:中華人民共和国内モンゴル自治区東南部に位置する地級市)に移ったときに3歳であった。数十万人のモンゴル人の遊牧民が中国政府によって定住を強制されたのと同様に、彼の家族もまた地方のテント暮らしから去り、都市の一世代でアパートにやってきた。現在32歳となるバインは、断音のモンゴル語と声調の中国語(マンダリン)の間を絶え間なく行き来をしている。多くの点で、バヤンは中国政府による600万人のモンゴル族の同化政策を具現化しているといえ、中国北部にいる内モンゴル人のほとんどがそうである。

しかし、バインはモンゴルの世界で大半を過ごしている。彼は生活のためにモンゴルの衣装(デール)をデザインし、2012年での結婚時にそれを身に着けた。彼の300人ほどの結婚式の招待客のうち、中国の人口の90%以上を占める漢民族グループはほんの一握りであった。彼の娘はモンゴル語の幼稚園に通う。彼は1950年代のモンゴル人の生活のビデオを見るのを好む。

中国政府は国境地帯を支配する上で、長期に渡って苦慮してきた。1949年に中国共産党が(国共内戦後に)権力を取り戻した後に、南西部の雲南地区とチベットを支配するに数10年を要した。チベットおよび極西部の新疆ウイグル自治区での緊張関係は、時には暴力を引き起こした。どちらも残虐に抑圧された分離主義運動が起こっている。モンゴルでも常に難しい民族関係が続いている。モンゴル人は、1990年代初めまで頻繁に中国政府と頻繁に衝突した。

しかし、ここ20年ほどは、内モンゴル自治区の大部分が不活発な状態である。内モンゴル自治区では現在分離主義運動が起きておらず、同じ民族の300万人が住んでいる独立した民主国家であるモンゴル国がすぐ北に位置していることを考えると驚きであると言える。地方の不満は、民族的なものよりも経済的に表現されることが多い。ロンドン大学・東洋アフリカ研究院エンゼ・ハン氏は、これを理由に多くのモンゴル人が自分を漢民族と見分けがつかないようにしてしまっていると述べている。内モンゴル人は中国西部の少数民族よりもはるかに漢族と結婚する可能性が高い。より多くの若者が内モンゴル自治区を離れ、他の場所で仕事を見つけることができる。やや納得がいくのが、中国共産党が何十年もの間内モンゴルを征服するのに寄与した同化政策を、チベットと新疆でも同じ政策を短期間で再現しようしていることである。

「桃源郷」に浸かると「地獄に落ちる」

内モンゴルの統合は部分的に歴史的であるといえる。チンギス・ハーンの孫であるフビライ・ハーンは、1271年に中国と結びつける王朝を創設した。北京への地理的近接は、頻繁に交流が行われることを意味した。部族の区別と人口の分散は、中国権力に対する抵抗を妨げた。内モンゴルは中国の領土の12%を占めるが、その人口は全人口の2%未満しか占めていない。

中国政府による政策はモンゴル人のアイデンティティを抑制した。漢民族の移住は19世紀に始まった。モンゴル人ネイティブの人口はすでに1949年には少数となってしまった。現在では内モンゴル自治区で20%の人口がモンゴル人となっている。この地域は文化革命で特に深刻な暴力を受け、推計にして10万人にも及ぶ人々が殺害された。内モンゴルに強く根ざした仏教が粉砕され、ほとんどの寺院が破壊された。内モンゴル自治区の自治区首府であるフフホトにある巨大寺院の大召寺(ダ・ザオ)では観光客の方が、信者数を上回っている(それにもかかわらず、問題が発生した場合に備えSWAT(特殊警備)チームが隅々まで待機している)。

中国共産党がチベットと新疆でさもうまくいっているように進めている中国語(マンダリン)で子供達に教育を施す方針は、内モンゴルで早期から始められていた。すべての若いモンゴル人は中国語(マンダリン)を話す - モンゴル語を理解する人はずっと少なくなってしまっている。中国共産党は中国語で支配されることに満足しているため、それがモンゴル語教育の成長を促している。モンゴル語で教育を受ける小中学生の割合は、実際には2005年の10%から2015年の13%に増加した。

金はモンゴル民族が中国共産党と折り合いをつけることに貢献した。内モンゴル自治区での1人あたりのGDPは1万ドルである一方、モンゴル国の1人あたりのGDPは4,000ドルであった。このような富は、鉱山資源、特に石炭を搾取し、インフラストラクチャーを構築するための計画的な政府戦略の結果である(最近では中国西部で別の措置が再現されている)。

問題は、同化と融和のモデルが持続可能かどうかである。 経済的圧力が高まっている。 多くのモンゴル人は、自治州の全体的な繁栄から除外されているように感じている。 不釣り合いである都市民は、遊牧民の2倍の収入を得る。 農村部であっても、地域のブームを促すエネルギー集約型の汚染産業は、漢民族企業に大きな利益をもたらしている。 一方、鉱夫はモンゴル人である。

鉱業会社は、草や山羊にはほとんど関心がなく、多くの水を消費している。 NGO団体のグリーンピースによると、いくつかの場所で水面台が100メートルも下がったという。2011年に新しい鉱山開発が縮小されたのは、漢民族の運転手が意図的にモンゴル人遊牧民を車で轢き殺し、抗議を引き起こした時で会った。自治区政府は補助金で牧畜者をなだめた。

しかし、西ウジムチン旗近くの36歳遊牧民で、その殺害現場に近くに住むツェツェグは、ほとんどの補助金は今や形骸化しているとと語る。砂漠化と気候変動は、彼女のヤギが放牧する草が少ないことを意味するため、彼女はさらに多くのトウモロコシを購入しなければならない。飼料費の上昇と肉価格の下落に伴い、彼女の家族は借りた10万元(15,000ドル)を返済することはほとんど望めなくなっている。ツェツェグの経済的苦境は時には民族的な意味合いを前提としている。この地域は2011年の抗議の後、漢民族の警察でいっぱいになったと、彼女は言う。彼女は息子が漢民族の人と結婚することに「同意しないだろう」と言った。「今はモンゴル人が少なくなっている。モンゴル人が漢民族と結婚してしまうと、私たちはモンゴル人を失います。私たちは血統を守らなければなりません。」

65歳のボディは、フフホトから車で1時間、百霊廟鎮(バイリンミャオ)の定住放牧地のコミュニティに住んでいる。住んでいるアパートは快適だと彼は言う。しかし、彼は車の騒音、揚げられた(中国の)食べ物、そして誰かが育てた肉を食べることを嫌悪している。 30代の彼の隣人は、彼らが草原を恋しく思う一方で、彼らの12歳の娘は 「Wi-Fiがあるところならどこでもいい」と満足している。

中国政府はこの地域の平穏さにつけあがってきている。今年は内モンゴル創立70周年を「伝統的な」スポーツ、音楽、その他のイベントを数ヶ月持つ「自治地域」として特徴付けている。しかし、政府主催の祭典を超えて、モンゴルのアイデンティティの静かな復活の兆候が見られる。西ウジムチン旗にいるある20歳代のモンゴル人は教育が中国的であったため中国語名で通しているものの、最近になって地元のモンゴルのモニュメントと彼自身が読むことができないモンゴル文章で飾られた服の仕立てを始めた。ソーシャルメディアは、内モンゴル自治区の異なる地域のモンゴル人が連絡を取り合うのを促進した。モンゴル語のアプリケーションは、モンゴル語を学びたいと思っている大人を対象に、言語の復活を補助している。

モンゴル国との関係も深まっている。フフホトのレストランは、モンゴル人のシェフや歌手を募集している。多くの中国系モンゴル人と同様に、バイリンはモンゴルを訪れたことについて畏敬の念を表明している。「誰もがモンゴル人であり、指導者さえもそうである」


------------------ END ---------------------

コメント:2、3年前に内モンゴル自治区・エレンホトに行った時に、日本に留学したことがあるという内モンゴル人に出会ったことがあります。その方が強い眼差しで言っていたのが忘れられません。「このことは覚えておいてほしい。私は、決して中国人ではない。モンゴル人であるということを。」その方は、商売をしているのですが、ザミンウードを車で行って、ウランバートルに行くと行っていました。

DSC06381

DSC06378


DSC06343

↑このページのトップヘ