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カテゴリ: ニュース

記念写真に納まるツェツェグジャルガル校長(前列中央)と柳澤学長
記念写真に納まるツェツェグジャルガル校長(前列中央)と柳澤学長(前列左から2人目)ら

岡山理科大学(岡山市北区理大町)は、モンゴルの首都・ウランバートルにある小中高一貫の「ナラン外国語学校」と教育・研究交流協定を締結することとなり、2019年10月17日、来日したゴンボ・ツェツェグジャルガル校長らと柳澤康信学長らが打ち合わせを行いました。協定は年内に締結され、教職員や学生・生徒の交流が本格的にスタートする見通しです。

一行は校長のほか同校のサンジ・デムベレルアドバイザー、北川雅弘・加計学園モンゴル支局長ら。岡山キャンパスで双方が協定書案の内容を確認しました。一行はA1号館にあるコンピューター実習室、化学実験室、音楽室・ピアノレッスン室などを見て回り、音楽の授業を見学。留学生入試についての説明を受けました。

岡山理科大学を初めて訪れたツェツェグジャルガル校長は「施設が充実していて、素晴らしい大学という印象です」と感想を述べ、「まずは教員の交流を進めていきたい」と強い期待感を表明しました。

ナラン外国語学校は2004年に設立され、生徒数約490人。教育内容はモンゴル語、英語、日本語、理科、地理、図形、体育などで、日本語は小学1年から教えています。

協定が締結されれば、モンゴルでは科学アカデミー古生物学地質学研究所(2013年)、国立教育大学(2017年)、生命科学大学(2018年)に続いて4件目となります。こうした交流の拠点として2019年9月、ウランバートルに「岡山理科大学モンゴル・サテライトオフィス」を開設しています。


【岡山理科大学について】
http://www.ous.ac.jp/
1964年、西日本初の理学部単科大学として応用数学科、化学科の2学科で開学。 2018年には愛媛県今治市に第2キャンパスを設け、西日本の私学で初の獣医学部を開設。7学部21学科1コースとなりました。「好奇心全開、探究心無限大」をキャッチフレーズに多彩な研究に取り組んでいます。

【本リリースに関するお問い合わせ先】
岡山理科大学 入試広報部
TEL:086-256-8412(内線1226)

旋盤
【写真 杙碍阻魅蹇璽織蝓璽ラブから贈られた旋盤のテスト=2019年10月1日、新モンゴル高専
橋のデザイン
【写真◆曚いつかのグループに分かれて、橋のデザインを検討する新モンゴル高専の土木建築工学科の学生(右は国際交流担当のスヘーさん)

 ウランバートルの新モンゴル高専は、機械、土木建築、物質、電気電子の4工学科があり、400人の学生が学んでいる。教職員は51人。
 この学校の特徴について、国際交流担当職員のスヘーさんは「新モンゴル文化」と説明した。新時代に適応した技術者を育てるために「まず人間力を上げることを努力目標にしている」と言う。
 健康であること、知識を深めること、多様性を認識すること、夢を持つこと…。そして何よりも、あいさつすること。当たり前のことだが、「とても大事なことです」とスヘーさん。
 ツェンドスレン校長は「日本ブランドの教育」と表現した。同校長は、2000年に開校した日本式の高校「新モンゴル高」と信州大工学部を卒業している。モンゴル高専の技術移転センター長を務めるガンオドさんとは高校同期だ。
 新モンゴル高は、後に小中高一貫教育の学校になった。さらに2014年、新モンゴル工科大と新モンゴル高専を開校し、「新モンゴル学園」となる。2016年には、日本の幼稚園や保育園にならった新モンゴル子ども園、2018年には姉妹校「日馬富士学校」も開校させた。
 これらの学校は、創設の際、多くの日本人が協力し、金銭的な支援も行った。新モンゴル高専は、佐世保高専と千葉大を卒業した前校長のボヤンジャルガルさんが開校に奔走した。当時の教育相、ガントゥムルさんは、仙台電波高専(現在の仙台高専)と長岡技科大を卒業しており、日本の教育制度に理解があって、計画が大きく進んだ。
 山形北ロータリークラブは、昨年4月、創立50周年を迎えた。これを記念して新モンゴル学園に300万円を贈った。新モンゴル高専は、この資金で、旋盤、プラズマ切断機、フライス盤、誘導電気炉、圧縮機など実習用機材をそろえた。
 山形北ロータリークラブは、新モンゴル学園理事長で日馬富士学校の校長も務めるガルバドラッハさんが、山形大留学生のとき、さまざまな支援を行い、その縁が今も続いている。
 ツェンドスレン校長が言う日本ブランドとは、高専創設の経緯はもちろん、学園としての日本との深いつながりを表している。
 新モンゴル高専の一期生は53人。このうち14人は日本の大学や高専(専攻科)に進学した。2人は中国などに進学。13人が日本企業から内定をもらった。残る24人はモンゴル国内の大学に進学または企業に就職したという。
 新モンゴル高専では、日本の教科書を使うことが多いそうだ。卒業研究も日本の事例を参考にしている。ということで日本語の勉強は欠かせない。
 今年の日本語能力試験には、123人が受験し、45人が合格した。このうちレベルが二番目に高い「N2」は4人という。
 また、日本留学試験に対応した夏休み特訓講座「サマースクール」も実施している。この講座は、もともと新モンゴル高校が2004年から実施しているが、高専も昨年から独自に始めた。日馬富士学校も来年から開講を予定している。
 最後に余談を一つ。10月4日、新モンゴル工科大と新モンゴル高専の開校5周年を祝う合同式典がウランバートル市内で開かれた。来賓祝辞で、モンゴル国立科技大付属高専の副校長を務める久留須誠・佐世保高専名誉教授は、モンゴルに高専ができたいきさつについて話した。その中で、久留須さんは、私が2005年に出版した「モンゴルの日本式高校」を紹介しながら「モンゴルに日本式高校があるのなら、今度は日本式の高専をつくりたいと思った」と話した。
 拙著の紹介は予想外の出来事であり、光栄の至りだった。ただし、久留須さんは、私のことを「山形日日新聞の記者」と説明したのには、まいってしまった。
 私は、式典が終わってから、久留須さんを探し、お礼を申し上げるとともに、「私は、山形日日新聞ではなく、仙台に本社がある河北新報の記者をしておりました」と説明したのだった。




▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
全身全霊 第70代横綱、18年間のけじめ 日馬富士公平
日馬富士 公平
ベースボール・マガジン社
2018-09-27


ウルジートクトフさん
【写真 杣蟶遒蠅靴織離粥璽鵐痢璽觚園について説明するウルジートクトフさん=2019年10月3日

上から見た公園
【写真◆朶篁海両紊ら見たノゴーンノール公園。住宅地の中のため池が公園になった
 
 ウランバートルの北に「ゲル地区」と呼ばれる住宅地が広がっている。ここに「ノゴーンノール」と呼ばれる公園ができ、市民の間で話題になっている。住民が、ごみ捨て場になっていた場所を公園に変えたのだという。もともと「モンゴル抑留」の日本人が、強制労働で採石した場所でもあり、その歴史を踏まえた、日モ交流の新しい名所になると、私は期待している。
 ノゴーンノールは、直訳すると「緑湖」。岩山の穴に雨水がたまった池だ。ため池の所有者は、近くに住むウルジートクトフさん。エルデネット出身の43歳。ため池の面積は約1400平方メートル。池を囲む山の斜面は国有地だそうだが、それも含めると9000平方メートルぐらいになるという。さらに岩山の上、ウランバートルの市街地を望む場所にも、ウルジートクトフさんが所有する土地があり、植樹をしているそうだ。
 ウルジートクトフさんは、消防署員、演劇監督の助手、韓国出稼ぎなどを経て、現在はアパート経営に当たっている。
 2009年9月、山の上からウランバートルの市街地を見て「すばらしい眺めだと思った」ことが、そもそもの始まりだ。同時に、足元のそばに大きな穴があり、水がたまって、ごみが捨てられていた。「これではだめだ。公園にできないか」と思ったという。
 2010年、ため池の土地を購入し、2012年、ごみの撤去を始めた。家族からは反対されたが、大工をしている父親は協力してくれた。親子で公園造りが始まった。池の周りに木道を作り、池に下りる階段などを整備した。休憩する小屋や長いすもできた。
 この場所は、もともと採石場だった。採石作業に日本人が関係していることを知ったのは、2016年、モンゴル抑留の事情を知っているモンゴル人の話を聞いてからだという。
 私は、ウルジートクトフさんから、1950年に撮影されたというスフバートル広場の写真を見せてもらった。現在の中央政庁舎(国会、大統領府、首相府)の右手奥にモンゴル国立大の建物が見える。国立図書館から撮影されたという。左手奥に赤い矢印が付けられている。そこがノゴーンノールだが、全くの山の斜面に見える。
 1945年、当時のソ連は、対日戦で60万人の日本軍捕虜を獲得した。いわゆるシベリア抑留だ。このうち1万2000人がソ連からモンゴルに引き渡され、ウランバートルなど16カ所に分けられ、都市建設やトーラ川沿いの樹木伐採などに駆り立てた。
 ノゴーンノールの採石場でも多くの日本人が働かされた。掘り出した石は、主にスフバートル広場周辺の道路の敷石になったという。
 公園は、夏は貸しボート、冬は貸しスケートの営業もしているが、入場料はなく、市民は自由に散策できる。ゲル地区には、半径5キロの範囲に16カ所の学校があり、子どもたちが遊びに訪れる場所になっているそうだ。
 私がノゴーンノールを知ったのは、2017年2月、東北大の東北アジア研究センターで開かれたゲル地区のシンポジウムを傍聴したときだった。東大大学院生のG・ロブサンジャムツさんが、まちの話題として公園を紹介した。以来、私は「いつか行ってみたい」と思うようになり、今年10月、ようやく実現した。
 ウルジートクトフさんは、昔の写真や映像を集めており、「ゆくゆくは資料館をつくりたい」と話している。
 ウルジートクトフさんは、日本に興味があり、日本センターの日本語講座を受講したこともあるそうだ。「ノゴーンノールを日本人に知ってもらい、モンゴルと日本の交流に役立てることができれば」と静かに力強く話した。

▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

教員の日
【写真】生い立ちや教員になった理由などを話すラオグドラムさん(中央)。茲魯淵薀鵐丱筌觜残后2019年10月5日

 新モンゴル小中高の創立19周年の記念式典が10月5日、姉妹校・日馬富士学校の体育館で開かれた。この日は「教員の日」。式典では、校長式辞や来賓祝辞など型通りの行事もあったが、「ゲストティーチャー」として登壇した生徒指導のラオグドラム(LD)さんが、ナランバヤル校長や生徒との間で、なごやかな会話を繰り広げた。
 LDさんは、馬乳酒で有名なブルガン県サイハン村の遊牧民の家庭に生まれた。檀上のスクリーンには、乳しぼりの手伝いをするLDさんの写真が映し出される。大草原を走るトラックの荷台に人がいっぱい乗っている写真もある。「昔はバスなんてなかったんですよ」とLDさんは説明した。
 子どものころから成績が優秀だったLDさんは、会計士を目指してモンゴル国立大の経済学部を受験した。しかし合格できなかった。1年間、遊牧民の生活に戻った後、今度は教育学部に合格できた。その後、「先生になって良かった」という体験談が続く。 LDさんは、教員生活をするうちに、自分の学校を持ちたいと思い、実際に開校した。しかし、資金が足りず、1年で挫折したという。「学校の経営者よりも、教員のままで生きようと思った」と反省の弁を語った。
 なぜ新モンゴル小中高の先生になったのか―。学校経営に失敗し、教育改革のNGOで活動していたとき、当時のガルバドラッハ校長に誘われたからだという。しかし、気が進まず、採用試験の面接の日は、「ノー」と言おうと思って出かけたという。ところが、実際に学校を見せてもらううち、気持ちは「イエス」に変わった。「外国人(日本人)が、親と同ように支援している学校であることを知って、ここで働いてみようと思った」という。
 生徒との質疑応答では、人生相談のような質問も出た。7年生(中2、日本では中1)の女子生徒からの質問だった。
 「最近、母が出産しました。私は3人の弟や妹の面倒をみなければなりません。私は、ほかにやりたいことがいっぱいあるんです。先生、私はどうしたらいいでしょうか」
 LDさんは答えた。「私は子供のころ、いろいろと家の手伝いをしました。あなたも、きょうだいで、できることを分担すれば、きっとできますよ。がんばりましょう」
 LDさんへの感謝の言葉を述べる生徒もいた。「私は、父が交通事故で亡くなったとき、とても悲しかった。収入がなくなり、学校に行けなくなった。そのとき、先生は、奨学金を見つけて、励ましてくれました。先生、あのときは、ありがとうございました」
 LDさんは「私も25歳のとき、父親を亡くしました。あなたの気持ちは、よくわかります。あなたは、よくがんばりましたね」と応じた。
 生徒会の役員をしている生徒も感謝の言葉を述べた。「先生は、生徒指導の文書を、ガラ先生(ガルバドラッハ校長)に出したら、赤い字でいっぱい直されたと言いました。私も、生徒会の文書を先生に見せると、いっぱい直されます。先生、いつも私の文章を直してくれて、ありがとうございます」
 式典の会場は、完成したばかりの姉妹校の体育館。バスケットボールのコート2面が使える立派な施設だ。そこに生徒、教職員、来賓合わせて1000人以上が詰めかけた。新しい施設のこけら落としのような式典だった。
 こんな中、生徒と先生による会話が続いた。私は、そばで聞いていて、ほのぼのとしたアットホームな空気を感じた。すばらしい学校だと思った。
 




▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
全身全霊 第70代横綱、18年間のけじめ 日馬富士公平
日馬富士 公平
ベースボール・マガジン社
2018-09-27


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【写真】解体中のゲンデン元首相の旧宅=2019年10月6日午後4時ごろ撮影


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【写真◆粛清された僧侶の頭蓋骨などを並べたゲンデン資料館の内部=2011年5月撮影

 

モンゴルは発展中だ。首都ウランバートルは、訪れる度に街の様子が変わっている。今回の訪モで、私は、ゲンデン元首相の旧宅を利用した資料館が取り壊されているのを見て、少しばかりショックを受けた旅行案内書には「政治粛清祈念博物館」と紹介されている建物だ。

スフバートル広場の南、日本大使館の西側に位置する一等地。ウランバートル最近、地価が高騰していると聞く。地上げでもされたのだろうか以前から気になっていた古い木造の建物だ。解体はやむを得ないかもしれない。しかし、中の展示物はどうなるのほかの場所に移して保存を継続するのだろうか。心配だどなたか、ご存知の方がいたら、教えていただけませんか。

ゲンデンは、1932年に首相となり、1937年にモスクワで処刑されとウィキペデアにある。モンゴルは当時、人民共和国の時代で、言わばソ連の属国だったゲンデンはソ連の言いなりにはならず、そのために処刑されたと言われる。スターリンと口論したとき、スターリンにビンタをくらわしたという逸話も残っているほどだから、あり得る話だ

私は、20115月、資料館を見学したことがある。共産主義による粛清でチベット仏教の寺院は取り壊され、多くの僧侶が殺された。資料館には、そのときの写真や殺された僧侶の頭蓋骨が多数展示されていて、異様な雰囲気だった

共産主義時代の負の遺産を示す貴重な資料である。建物は解体されても、中の資料は大切に保存して、粛清の歴史を後世に伝えてほしい。


▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。



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