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カテゴリ: 歴史

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△ハルハ(モンゴル)
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△明安
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△ソニド

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この本は、ほぼ4世紀を通して、ロシア(ソ連)がモンゴルをどのように見て政策を実行したのかを、スターリン統治下のソ連の対外政策におけるモンゴルの特殊性と普遍性を材料に記述されています。


ソ連国内では大規模なテロルを発動して国民を恐怖に陥れ、小国には圧力をかけて譲歩を迫り、時には飲み込んでしまうという独裁的・強迫的なスターリン体制にあって、ソ連とモンゴルの関係性はきわめてユニークなものであったといわざるをえない。


このユニークさにはスターリンのソ連にとってもモンゴルが有する戦略的な重要性という理由があるものと思われる。

1

もくじ

第1章 前史--ロシア帝国時代のロシア・モンゴル関係
第2章 1920年代のソ連の対モンゴル政策
第3章 1930年代のソ連の対モンゴル政策
第4章 ソ連の対モンゴル関与の拡大--ノモンハン事件に至るまで
第5章 第2次世界大戦とモンゴル独立への道


1917年のロシア革命後にロシア帝国からの独立を果たしたフィンランド、ポーランドやエストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国は、第2次世界大戦を前にスターリン統治下のソ連による圧力を受けた。


それと対照的なのは、清国の支配下にあったモンゴルで、ロシア帝国より先に崩壊した清朝から1911年に独立を宣言した後、ロシアおよびその後継国家たるソ連の支援を受けて実質的な独立を享受した。


以下、スターリンとモンゴルの関係性で、面白かった箇所を一部、抜粋します。

スターリンがヤルタ会談やその後の中華民国との交渉で、モンゴルの独立を主張したことの理由には、経済的、人口的にもロシアを圧倒しつつある中国の存在が大きいと言える。

引用

ソ連にとっても、中国を前に独立喪失を恐れ、ロシアとの正常な関係が死活的重要性をもっていたと言える。また、満州国を作った日本によってもソ連とモンゴルの結びつきは強くなったと言える。


第4章、第5章では、ノモンハン事件を通してソ連とモンゴルの関係を浮き彫りにしています。スターリンがモンゴルを非常に重要な国として位置づけている発言があります。

引用
アメリカの新聞人ロイ・ハワードに対して行なったスターリンの話は「国際的反響」を呼んだ。「もし日本がモンゴル人民共和国を、その独立を侵して攻撃しようとするならば、我々はモンゴル人民共和国を助けねばならない。・・・・我々は1921年の時と同様に、モンゴルを助けるだろう。」というものであった。

モンゴルが保有する天然資源という武器をロシアが利用したいとの思惑も見えてきます。

引用
19世紀から20世紀初頭にかけてのロシアのモンゴルに対する経済政策は帝国主義的で、モンゴルへの投資は中国やイランに比べて僅かだったが、大きな変化をモンゴル社会にもたらした。
〜(略)
ロシア企業は現地の安価な原料と天然資源を利用し、現地の労働者には僅かな給与しか支払わずに莫大な利益を上げた。彼らはモンゴルに新しい人民の搾取形態、すなわち資本主義的形態をもたらした。

2

もしもスターリンがヤルタ会談やその後の中華民国との交渉でモンゴルの独立を主張しなかったとしたら、はたしてモンゴルは独立を果たせたのだろうか。
中華人民共和国時代に入って今日までの新彊やチベットの状況を考慮すると、その確率はかなり低かったのではないか。

そうすると現在のモンゴル国民は、スターリンのおかげで独立を享受しているということになる。
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満州事変を引き起こし、満州国を作ったことによって、日本はスターリンの強烈な反応を引き出し、モンゴルを含む満州国の周辺地域に強大な陣地を構築させることになった。
そのひとつの帰結がノモンハン事件だった。
ノモンハンの戦いで日本に打撃を加えたとはいえ、満州国の消滅までソ連側の不安は消えなかった。
したがって1939年以降もソ連は日本に対する前線基地の一翼を担うモンゴル国内における動員体制の整備を怠らず、鉄道敷設等の準備を着々と進めていた。
他方で、独ソ戦が始ると、モンゴルはソ連の後背地として一定の役割を果たすことになる。
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ソ連にとってモンゴルは、1930年で70万人という希薄な人口よりも、長い国境にわたって中国と直接対峙せずにすむ緩衝地帯であるという地政学的な利点が最大の魅力であり、中国からの独立を後押しした革命時の指導部も、スターリン時代も、〜(略
この利点を失わないように同様のアプローチを取っているものと推定される。
〜(略
逆に、モンゴルからすれば国境を接するのは南北の両大国だけで選択肢の幅は狭いが、経済的、人口的にもロシアを圧倒しつつある中国を前に、独立喪失を恐れ、ロシアとの正常な関係の維持は死活的重要性を持つものと理解しているに違いない。

スターリンのソ連が全く慈善的にモンゴル国民の独立を願って後援していたのかといえばそうではなく、ソ連の安全保障を最重要の課題としてモンゴルに関与していく冷徹な戦略的思考が働いていたのであり、モンゴルという戦略的要衝を戦後も維持したいとスターリンが願った結果、中国もそれを認めざるをえず、モンゴルの独立が達成されたとのことです。

モンゴルは、第2次世界大戦終了後にスターリンのバックアップを受け中華民国からの完全な独立を獲得、国際連盟への加盟は1962年と遅れたが、国際社会からも認められる存在となって今日に至っている。
ソ連の衛星国家に過ぎなかったとの見方がある一方、曲りなりにも独立国家として現にモンゴルが存在することを考えるとき、それに果たしたスターリンの役割を無視することはできない。

中国側がモンゴルは自国領土であると一貫して主張していたことを考慮するならば、スターリンを称賛する一部モンゴル人の主張には一定の真実、正当性が含まれているといえよう。

ソ連、モンゴル、中国という3国の関係性など、モンゴルに興味のある方はもちろん、そうでない方にも歴史や世界情勢が勉強になるので、おすすめだと思います。



「スターリンとモンゴル」は値段も8千円と決して安いとは言えませんが、内容が充実していて面白いので、是非、読まれてみてはいかがでしょうか。






  こんにちは! ウランバートル留学中、軟弱大学生の多摩川です。担当2回目の記事にも関わらず、ちょっとぶっとんだテーマを選んでみました。

 上の写真はスフバートル広場。ウランバートル市の中心、政府宮殿の前に位置しています。中心には社会主義革命の英雄スフバートルの像が立っており、その名を冠した広場です。この広場の南側半分ではマーケットやイベントがよく開催されます。先日9月22日には古本市が開かれていたので欣喜雀躍し行ってまいりました! 会場にはモンゴルの大手国内書店であるInternom(インテルノム)をはじめ、ウランバートルの古本屋さんが一堂に会し、社会主義時代の古本から最近の本まで、理系文系、学術書一般書問わずたくさんの本あふれるマーケットとなっていました。

 私が買ったのは上の写真の本です。タイトルを日本語訳するなら「我らの歌-我らの歴史」でしょうか。1921年の革命から60周年の1981年出版で、社会主義時代モンゴルの革命歌や党歌、労働歌、軍歌などの楽譜と歌詞が大量に収められています。なかなかコアな本ですよね。社会主義時代のモンゴルで出版された本は、紙質は微妙ですが、装丁に味があって好きです。

 日本で旧社会主義圏の歌というと、ソ連や東欧が有名で、モンゴルはあまり知られていないように思います。個人的には残念です。

    社会主義時代以前のモンゴルには、Уртын дуу(オルティン ドー「長唄」)やМорин хуур(モリン ホール「馬頭琴」)といった音曲、楽器の伝統がありました。社会主義時代以降、ソ連などから近代的音楽の手法を取り入れ、たくさんの歌やオペラ、オーケストラ音楽が作られたそうです。伝統的な民族音楽を、ヨーロッパの楽典を参考にアレンジし、国家代表の音楽とした状況は、他の旧社会主義諸国(中央アジア諸国など)と似ており、大変興味深いと思います。

 せっかくなので、留学前からよく聞いていた軍歌Дайчин нөхрийн тухай дууの歌詞を本から引用してご紹介します。ネット上にフリーの音源があると思うので、ぜひ以下の歌詞を参考に聞いてみてくださいな!(日本語訳は私がつけたので、間違っている部分が多いと思います。参考程度にご覧ください。)

 

Дайчин нөхрийн тухай дуу

戦友の歌

1

Саарал шинелээ тайлаагүй

白き外套をまとった

(注:тайлаагүйの直訳は「脱がなかった」、шинелээは軍服のコート)

Буурал найз минь хаахa байна

白き我が友はどこにいる

Дархан хотын барилга дээр үү

ダルハン市街か

Торгон хилийн зааг дээр үү

国境地帯か

(注:Торгон хилийнの直訳は「絹の国境」つまりモンゴルの南側国境)

 

Дууны ая хангинасан

歌の旋律響く

Найрын дунд танилцаагүй юм

宴では出会わなかった

Бууны дуу тачигнасан

銃声響く

Дайны галд танилцсан юм

戦火の中 出会った

 

Нэгэн эхээс цуван төрж

同じ母からつづいて生まれ

Нэхий өлгий дамжаагүй юм

(同じ)揺籃に抱かれたわけではないが

(注:Нэхий өлгийの直訳は「毛皮のゆりかご」)

Цэргийн хуaрaнд ихэр болоод

兵舎で兄弟になり

Цэгц журмын нөхөр болсон юм

精鋭の友となった

 

Саарал шинелээ тайлаагүй

白き外套をまとった

Буурал найз минь хаахa байна

白き我が友はどこにいる

 

2

Саарал шинелээ тайлаагүй

白き外套をまとった

Буурал найз минь хаахa байна

白き我が友はどこにいる

Дархан хотын барилга дээр үү

ダルハン市街か

Торгон хилийн зааг дээр үү

国境地帯か

 

Дараа би цэргээс халагдаж

のちに私は軍籍を解かれ

Дайчин нөхөр минь үлдсэн юм              

我が戦友は(私を)追いかけた

Манаа хүртэл үдэж өгөөд

哨戒所まで見送ってもらい

Санаа алдан гар барьсан юм

ため息をついて握手した

 

Хорин жил зам салсангүй

二十年 道を分かれたが

Хоёр биеэ бид мартсангүй

お互いの存在を我らは忘れなかった

Энгийн цэргийн хоёул хамт

退役軍人のふたりは共に

Эх орны төлөө манаандаа

母国のための哨兵であった

 

Саарал шинелээ тайлаагүй

白き外套をまとった

Буурал найз минь хаахa байна

白き我が友はどこにいる

 

3

Саарал шинелээ тайлаагүй

白き外套をまとった

Буурал найз минь хаахa байна

白き我が友はどこにいる

Дархан хотын барилга дээр үү

ダルハン市街か

Торгон хилийн зааг дээр үү

国境地帯か

 

Дарийн утаа цуг үнэрлэж

火薬の煙を共に嗅ぎ

Харийн манхан хамт тууллаа

砂の丘を共に乗り越えた

Халуун цус маань ижил урсаж

我らの熱き血を共に流し

Залуу нас минь адил өнгөрлөө

我が若き日を共に過ごした

 

Эргүүлж явсан сэлэмнээс маань

翻る我らのサーベルから

Энхийн салхи сэнгэнэсэн юм

平和の風が吹いたのだ

Энхийн салхины тэр аясаар

平和の風によって

Мөнхийн тэнгэр цэлмэсэн юм

無窮の天は晴れた

 

Саарал шинелээ тайлаагүй

白き外套をまとった

Буурал найз минь хаахa байна

白き我が友はどこにいる

Дархан хотын барилга дээр үү

ダルハン市街か

Торгон хилийн зааг дээр үү

国境地帯か

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