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カテゴリ: 歴史

ノモンハンの地平
【写真】細川呉港著「ノモンハンの地平」(光人社NF文庫)

 細川呉港著「ノモンハンの地平―草原紀行 ホロンバイルの過去と現在」(光人社NF文庫)を読んだ。
 満洲(現在の中国東北部)の北西、ロシアやモンゴルとの国境地帯に広がるホロンバイル大草原を訪ねた紀行文である。現代の日本人があまり行かない地域なので、探検記のようでもある。同時に1945年8月のソ連軍侵攻で玉砕したハイラルの地下要塞や1939年のノモンハン事件(モンゴルではハルハ川戦争)の舞台を訪ねて、シベリア抑留につながる悲惨な歴史を振り返った戦争論にもなっている。
 この著者には「草原のラーゲリ」(文藝春秋)という大著がある。ホロンバイルの遊牧民の子として生まれたソヨルジャブというダゴール・モンゴル人の数奇な運命を描いた本だ。ソヨルジャブさんは、チチハルの師範学校で日本語を学び、さらに日本人の学校ハルピン学院を卒業して、ハイラルの省公署(県庁)職員のときに満洲国崩壊を経験する。その後、ウランバートル、フフホト、青海省のラーゲリ(収容所)生活を続け、その間、中国の文化大革命の荒波にもまれる…。
 ソヨルジャブさんと同じようにホロンバイルで子ども時代を送ったブリヤート・モンゴル人のツェベクマさんに鯉渕信一さんが聞き書きした「星の草原に帰らん」(NHK出版)も、とても興味深い。
 ツェベクマさんは、司馬遼太郎の通訳を務めたことで知られるが、彼女もソヨルジャブさん同様、日本式教育の学校で日本語を覚えた。「星の草原に帰らん」では、ホロンバイルの草原を裸足で駆け回り、足がこごえると、真新しい牛の排せつ物に足を突っ込んで暖を取る野性味あふれる少女時代が生き生きと描かれている。
 堺六郎著「シベリアのラーゲリを逃れて―ホロンバイルからシベリアへ」(筑摩書房)も、ホロンバイルについての記述が私の心に残る。堺さんは、ハイラル特務機関ウルシュン連絡所員として、酒や雑貨を販売しながら現地情勢を探る任務に当たっていたが、突然のソ連参戦でシベリア送りとなる。この本では、自らの体験を、ホロンバイルは「天国」、シベリアは「地獄」と対照的なタッチで描いている。
 ホロンバイルは、かつて多くの日本人が活躍し、日本に親しんだモンゴル人も多かった地域である。その歴史は、しっかりと記憶にとどめなければならないと私は考える。「ノモンハンの地平」で著者は「満洲国を、ただ侵略者として日本の歴史のなかで一刀両断に切り捨ててしまうことは、あまりにも浅薄にすぎる」と書いている。また「満洲国を『偽満洲国』と呼び歴史の中から抹殺しようとするに至っては論外である」とも指摘して、政治的プロパガンダで歴史を語る中国の姿勢を批判している。
 
▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

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まいど、編集長のタケシです。

現在の公文がキリル文字のみになっていますが、モンゴル政府は2025年から現在内モンゴルで使われているモンゴル文字を、キリル文字と併用して全面的に使うと発表しました。

徐々にモンゴル文字の復活と普及に取り込んでいくそうです。



モンゴル文字を失った経緯とは?


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1921年、モンゴルはソビエト連邦の「支援」により独立しました。その後、ソビエト連邦は部隊を駐留させ、モンゴルの内政と外交も支配するようになりました。

そのため、ソビエト連邦は領土内の多くの地域に言語政策を実施しました。

モンゴルが、今のキリル文字に変わったのはこういう背景があるからです。

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モンゴル文字からラテン文字、そしてキリル文字に変えていきました。

1931年、モンゴル人民共和国はモンゴル語のラテン語化の決定を採択し、その後10年間で、モンゴルで出版された本の中にウイグル文字、ラテン文字、キリル文字などのモンゴル語が共存しました。

しかし、1941年からキリル文字に統一され、伝統的なウイグル文字のモンゴル文字が消えてしましました。


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ウイグル文字の使用の減少により、キリル文字モンゴル文字の普及を促進する過程で、多くのモンゴル国民は以前の歴史文書を読むことが困難になります。さらに、キリル文字モンゴル語の​​綴りの基礎は、モンゴルで一般的に使用されるカルカ方言です。その過程で、キリル文字モンゴル語に多数のロシア語が追加されました。

言語の変更は、伝統的なモンゴル語の​​意味合いに影響を与えました。

モンゴル文字を復活の取り込みとは?



1990年代、ソビエト連邦の崩壊により、モンゴルの伝統的な言語を回復することを支持するモンゴルの声が強くなりました。 1992年、モンゴル国大議会は、モンゴルが徐々にモンゴルに戻ることを発表しました。

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2003年、モンゴルは、毎年5月の第1週に「エスニックライティングカルチャーフェスティバル」を開催すると発表しました。 2014年、モンゴルは中国内モンゴル自治区の書道協会の会員も招待しました。モンゴルの小学生の最初の週である2009年には、当時のエルベグドルジ大統領も国営ラジオ局で生放送し、ウイグル文字で書かれた「馬」の意味を伝え、この伝統的な台本の重要性を強調しました。 


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2011年、モンゴルは、政府のメンバーと国際機関が海外の同じレベルの職員と通信する場合、公式文書と手紙はモンゴル語でなければならないことを規定しました。

モンゴル国民の出生証明書、結婚証明書、あらゆるレベルの教育機関が発行する関連証明書、および卒業証明書も、ウイグル語モンゴル語とキリル文字モンゴル語で並べて書かなければなりません、など。

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モンゴル文字が復活すれば、TwitterやFBでモンゴルの情報がたくさん出てくるかもしれないね。今のところはミスターモンゴルの情報しかありません。(笑)



堺さんの本
【写真】堺六郎著「シベリアのラーゲリを逃れて―ホロンバイルからシベリアへ」(筑摩書
房)の表紙

 娘が立って行って十能のようなものに牛糞の燠(おき)を置き、その上に香を振りかけて各人に廻してよこした…蒙古の奥地で埃にまみれながら嗅ぐ抹香の匂いは、なんともすがすがしく、心の奥底まで浄化されるような気がした―。

 堺六郎著「シベリアのラーゲリを逃れて―ホロンバイルからシベリアへ」(筑摩書房)の102ページに書かれた一節だ。1944年の暮れ、満洲国の外モンゴル国境地帯。著者は、吹雪の中、ホロンバイル(フルンボイル)大平原のポツンと一軒家のようなモンゴル人の家にたどり着いた。食事でもてなされ、寝ようとしたら、香を焚いてくれた。穏やかな気持ちで眠りにつけるようにとの配慮なのか。

  モンゴル人にとっては当たり前のことかもしれないが、私には、究極の精神文明のように思いながら読んだ。不便な生活を送っていても、客人をもてなす心の余裕を持っている人々は豊かなのではないかと考えてしまう。

 著者は、1918年、福島県喜多方市の生まれ。満洲拓殖公社や兵役を経て、東蒙古株式会社に入社し、ウルシュンを拠点に酒や雑貨の販売をしていた。一方、ハイラル特務機関ウルシュン連絡所の一員として現地の情勢を探る任務もあった。

 この本の前半は、「蒙古放浪」のタイトルで、ホロンバイルの草原の一つ「メヌンタラ」の自然、モンゴル人(バルガ族、ブリヤート族)や満人との交流、そして冒頭のような体験談が次々と描かれる。

 後半は、「シベリアのラーゲリを逃れて」の題で、終戦直前の再応召、日ソ開戦、妻子の死、シベリアでの抑留生活が描かれる。抑留は28歳から40歳まで。著者は「わたしにとっては悪夢のような空白の12年であった。消しゴムで消せるものなら消してしまいたい…」と書いている。

 この本は、ホロンバイルは天国、シベリアは地獄―と対照的に記述し構成したものだと私は思う。

 著者は1956年12月、やっと帰国した。帰国後は、宮城県蔵王町の遠刈田温泉近くでニジマスの養殖場を経営し、この本は1987年に出版された。

 私は50年前、著者の堺さんのニジマス養殖場に2週間、居候したことがある。友人の父親が共同経営者だった関係で、友人と一緒にお世話になった。

 堺さんは、塗炭の苦しみを経験されたせいか、とても穏やかな人だったと記憶している。私たちに、羊肉の塊を塩ゆでした「チャナスンマッハ」をごちそうしてくれた。そのとき、「ジンギスカン焼き、あれは日本料理だ」と説明した。モンゴルについて話すときは、いつも静かな語り口だったが、シベリアの話になると「ロスケ」という言葉を何度も口にした。

 私にとっては初めてのモンゴル話だったが、そのときは、それで終わった。当時の私は、モンゴルよりもシベリア抑留に関心があったと思う。

私がモンゴルについて興味を持ったのは、1998年、山形市で勤務していたとき、モンゴル人の留学生に出会ってからだ。モンゴルの歴史や民俗について自分なりに勉強し始めたとき、堺さんのことを思い出した。仙台に戻って、しばらくしてから、ご自宅を訪ねると、堺さんは入院していた。奥さんによると、来客とお話しできる状態ではないという。この本は、そのとき、奥さんからいただいた。その後、堺さんは他界してしまった。

  もっと早く、元気なうちにお会いして、ホロンバイルの思い出話を、じっくりと聞いておけばよかったと後悔している。

▽森修 もり・しゅう 
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。


Cайн байна уу? Bună ziua.
今回は、ルーマニアのとある教会がモンゴルと関係があった、あとルーマニアの自然が結構モンゴルっぽい、というお話をします。
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ルーマニアの中央部に位置するトランシルヴァニア地方のクルツァ(Carța)という小さな町に、クルツァ教会(Abația Carța/Kloster Kerz/)があります。
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ルーマニアに移住してきたドイツ人が建設したプロテスタント教会です。

以下のサイトに詳しい日本語による解説があります。有り難いです。


しかし、この教会、かなり廃墟っぽい形になっています。何でも、1241年のモンゴル軍の侵攻、さらに1421年のトルコ・オスマン帝国軍に侵攻により、かなり破壊されてしまったらしいです。破壊された形がそのまま残されているようです。
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しかしながら、クルツァ教会の中はそのまま残っており、オルガンもあります。現在でも地元の人が通う現役の教会となっています。
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場所はルーマニアですが、ここに住む人たちの多くはドイツ語を話すトランスシルバニア民族の人たちです。「トランスシルバニア」というと、ブラム・ストーカーによるホラー小説の『吸血鬼ドラキュラ』を指す人が多いです(特に英語圏の方々)。日本だと、コナミ社のゲームの『悪魔城ドラキュラ』の方が有名ですね。
ドラキュラというと、筆者個人的には、ファミコンゲームの『悪魔城すぺしゃる ぼくドラキュラくん』を思い出します。



Wikipediaによると、「1241年から1242年にかけてのモンゴル人のヨーロッパ侵攻で、ハンガリー王国の大半が荒廃した。ザクセン人は最善を尽くして抵抗したものの、多くの定住地が破壊された。侵攻の結果、多くのトランシルヴァニア定住地が石造の城で強化され、この強調が町を経済的に発展させた。」と書いてあります。

778年も前の昔に、ここでモンゴル軍に抵抗した、というのが想像できません。

そのモンゴル軍やオスマン帝国の侵攻から守るため、城を築き上げて、次第に7つの要塞都市を形成して行きました。それから、トランスシルバニア人は自分たちのことを「7つの城の人(ジーベンビュルガー、Siebenburger)」と呼ぶようになりました。モンゴルがきっかけのようです。
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↑七つの城を表したシンボルマーク(ワッペン)(出典:Wikipedia Siebenburger Sachsenより)

ルーマニアとドイツでトランスシルバニア人向けの新聞も発行されているようです(ドイツ語)。


ちなみに、トランスシルバニア地方、かなりのどかな原生の自然が残る地域です。モンゴルで馬に乗った時見た風景を思い出しました。
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途中、羊の群れを見ました。羊の大群は、かなりモンゴルの風景っぽいです。
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この地域で最も規模が大きいシビウ(ドイツ語名:ヘルマンシュタッド(Hermannstadt))という街があるのですが、雰囲気が漫画・アニメの『進撃の巨人』っぽい感じの街です。1241年ごろに馬に乗ってモンゴルからここまでやってきたのが信じられないと思えました。
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シビウ駅の作りが、何となくウランバートル駅に似ていいます。やはり、旧社会主義国だった名残があるのかもしれません。
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そのシビウで、何とモンゴル名物のチャツャルガン(Чацаргана)のジュースを発見しました!これはかなり興奮して、買ってしまいました。

味はというと・・・砂糖が一切入っていない生のチャツャルガンの味で、非常に渋いものでした(笑)。
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さらに、ナショナルジオグラフィックでも特集があります。非常にのどかで牧歌的な地域ですが、若い人は豊かな場所であるドイツ、オランダ、フランス、ノルウェー などへ働きに出てしまい、高齢化が進み、家畜の数が急激が減ってきているようです。





あと、街中に普通に馬が走っていました。流石に、今のウランバートルで馬を見るのは、ナーダムの時だけですね。トランスシルバニアでは、馬車はまだ現役バリバリだそうです。
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今回はここまで。

Баяарлалаа、Mulțumesc.

皆様、こんにちは、ひでです。
久しぶりの寄稿になります。
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令和元年初月になる5月、私は「令和」由来の地、九州・大宰府に行ってきました。

『万葉集』序文にて、大伴旅人が詠んだ「初春令月・気淑風和」が「令和」元号の出典ということで、大宰府は大いに賑わっています。

しかし、大宰府は新元号だけの旧跡ではありません。
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※大宰府政庁跡。古来より「遠の御門と呼ばれている。

特に、日本とモンゴル(実質的にはモンゴル・南宋・高麗の三カ国連合軍)が激しく干戈交えた元寇(文永・弘安の役)においても、大宰府は非常に大きな役割を果たしています。
今回、そのことについて書いておきたい。と思います。

文永の役においては、モンゴルと高麗の使節団が複数回大宰府を訪れ、天皇宛に国書を送っている。(実際には鎌倉幕府の執権が国政を実行)

元寇の始まりは大宰府だったのです。


○ウイキ「元寇」より、実際に使節団が大宰府に来朝した際の記録を列挙します。


・第二回使節

1268年(文永5年・至元 5年)正月、高麗の使節団が大宰府に到来。 大宰府の鎮西奉行・少弐資能は大蒙古  国皇帝奉書(日本側呼称:蒙古国牒状)と高麗国王書状、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取り、鎌倉へ送達する。


・第四回使節

1269年(文永6年・至元6年)9月、捕えた対馬島人の塔二郎と弥二郎らを首都・燕京(後の大都)から護送する名目で使者として高麗人の金有成・高柔らの使節が大宰府守護所に到来。今度の使節はクビライ本人の国書でなく、モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した。


・第五回使節

1271年(文永8年・至元8年)9月、三別抄からの使者が到来した直後に、元使である女真人の趙良弼らがモンゴル帝国への服属を命じる国書を携えて5度目の使節として100人余りを引き連れて到来。クビライは趙良弼らが帰還するまでとして、日本に近い高麗の金州にクルムチ(忽林赤)、王国昌、洪茶丘の軍勢を集結させるなど、今回の使節派遣は軍事力を伴うものであった。
博多湾の今津に上陸した趙良弼は、日本に滞在していた南宋人と三別抄(寄稿者注:モンゴル支配下を由としない高麗の勢力が済州島に樹立した勢力)から妨害を受けながらも大宰府西守護所に到着した。


・第六回使節
1272年(文永9年・至元9年)4月又は12月、元使である女真人の趙良弼らは、日本が元の陣営に加わることを恐れる三別抄の妨害を受けながらも、6度目の使節として再び日本に到来。


しかし遂に使節団の活躍も空しく、1274年(文永11年)、文永の役が火ぶたを切ってしまいます。

文永の役が元軍の敗北に終わると、業を煮やしたフビライの意志により、本格的な日本征服計画をたて軍勢を送ることになりました。

即ち、弘安の役です。


元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000〜56,989人・軍船900艘と、旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人、及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000〜156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航しました。

これは当時、史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であったのです。


その際、大宰府は大軍勢の一軍である「東路軍」の「制圧目標」となります。


以下、ウイキ「元寇」より転載。

 東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した。

しかし、さすがの日本軍も今回の弘安の役において、防備は万全でした。

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※大正時代に建てられた「水城大堤之碑」。
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※水城土塁
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※水城防塁。

それが第一段階である「元寇防塁」の博多湾周辺における建設であり、第二段階としての「水城の修築」でした。


水城城はもともと元寇にさかのぼること600年前、「白村江の戦い」における唐・新羅連合軍の侵略に対する防備として、天智天皇によって建築された防壁です。それが元寇における元・高麗連合軍の侵略の際にも再び威力を発揮することになります。

もし、天智帝が水城を築いていなければ、恐らく文永の役の段階で大宰府はモンゴル・高麗軍の前に陥落していたでしょう。


皆さまも「令和」の聖地を訪ねたついでに、古来より現在に至る日本の安全保障の要諦は九州と朝鮮半島との関係にある。そのことを実感してみて欲しい。

そう願って止みません。


寄稿者:ひで


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