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カテゴリ: 歴史

 現在、百田尚樹さんの著書『日本国紀』(幻冬舎)が全国の書店で大ヒットし、インターネット上でも活発な議論や感想が交わされています。その中で、日本とモンゴルの交流史の上で決して外せない元寇の歴史についても9頁にわたって書かれています。

 この中で百田さんは下記のように主張しています。
 最近、歴史教科書では「元寇」や「蒙古襲来」という呼称は、モンゴルや中国に対する侮蔑的な言葉であるから使わないという流れになっているといいう。笑止千万である。歴史用語を現代の感覚で言い換えたり、使用禁止にしたりする行為は、歴史に対する冒涜である。

 本稿ではこの箇所について、筆者の考えをまとめます。
 百田さんが言及された内容はおそらく、2017年の中学校学習指導要領案のパブリックコメントに関することと考えます。この時、学習指導要領案では「元寇」を「モンゴルの襲来(元寇)」と表記する改正案が出ました。筆者もこの時は反対の立場から記事を発表。「モンゴルの襲来」では中国も朝鮮も関係ない、あくまでモンゴルが日本に襲来したという誤ったイメージを増幅しかねないと主張しました。

「元寇」から「モンゴルの襲来」に?中学校学習指導要領案のここが問題
http://mongol.blog.jp/2017/03/06/51929616

 さて本題は、「蒙古」の記述についてです。

 「蒙古」は現在でも中国語でモンゴルを指し、日本でも「日蒙」などの略語に散見されます。
 一方、現在の日本ではモンゴルに対して、「蒙」に悪い意味があるから使用しない、あるいは漢語に依存せずカタカナでモンゴルと表記する(歴史用語や学術用語を除く)ことが、常識になっています。
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デムチュクドンロブ(徳王)

 歴史用語としての「蒙古」は、鎌倉時代の元寇のほかには、昭和期に集中します。
 満洲事変(1931)以後の「満蒙開拓団」、盧溝橋事件(1937)以後にデムチュクドンロブ(徳王)が主席をつとめた「蒙古連盟自治政府」、ノモンハン事件(1939)の「外蒙古」「内蒙古」などが挙げられます。
 一方で、モンゴルを「蒙古」ではなく「モンゴル」とカタカナで表記するのは1949年から60年代にはすでに普及しており、より正確には、漢籍のみに頼らずにモンゴルの研究が始まった明治期から見られています。
 つまり、日本人が日本語としてモンゴルを「蒙古」ではなく「モンゴル」と表記する選択を行っている歴史があるのです。
 このことを、『日本国紀』の読者の皆様にお伝えしたいと思います。


 幸い、『日本国紀』では、下記のように詳述されています。
 文永五年(一二六八)、高麗の使者を介して武力制圧をほのめかした国書を日本に送ってきたのだ。その国書でフビライは「大蒙古国皇帝」を名乗っている。

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「蒙古国牒状」

 当時の日本は漢語の「蒙古国牒状」をもってしか大元大モンゴル国を知ることができなかったため、日本の立場から見た場合は「蒙古」となり、歴史用語となっています。

 さらに『日本国紀』では、「蒙古」と「高麗」と「旧南宋」をしっかり書き分けているため、先述の「元寇」をモンゴルの襲来に改めるという学習指導要領案の問題を把握できる内容にもなっています。

 「蒙古国牒状」が「武力制圧をほのめかした」と解釈された理由には、日本にモンゴルへの服属を勧める「高麗国牒状」が添付されていたこともあります。また、日蓮は一貫して「蒙古」と略せず「大蒙古」の表記を貫いています。日蓮の意図は不明ですが、筆者はそれが漢字の蔑意としての「蒙」「古」ではなく、あくまで実際の国名として記すという意思を感じます。

 北条時宗と鎌倉幕府の決断に関する百田さんの解釈と主張は、是非著書のご購読をもって皆様に考えていただくと、日本とモンゴルの相互理解やモンゴル研究への興味関心が、一層深まると思います。

 モンゴルが現在の日本の友国に至った歴史を、日本人が日本人として自国の歴史に誇りを持つ上でも、大切にしていきたいと思います。

(2018年11月25日 みずばしょう)



参照:
モンゴルは「蒙古」にあらず。日本語の誇りをかけた静かな戦い
http://mongol.blog.jp/archives/51763500.html 

mongolia LGBT
↑↑↑ The LGBT Centre (Mongolia) 


毎度、編集の編集長のタケシです。

最近日本でも身近になったLGBTという言葉、もはや知らない人はいないだろうと思います。LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーのイニシャルの略称です。

私が学生の頃、20-30年前はどこのクラスでも一人か二人はLGBTの人はいました。だけど、あの時代はやっぱりみんな(私を含む)から笑い者にされたり、虐めの対象になったりましたね。

オーストラリアのThe Monsoon ProjectというWEBサイトでモンゴルにおけるセックス&セクシュアリティに関する発表があったので紹介したいと思います。

それは"Sex & Sexuality Part 2: Mongolia"(セックス&セクシュアリティ パート2:モンゴル)という記事でした。結構興味深い事を書いてあったので機械翻訳すると:

2014年21月8日の Alice Dawkins

Monsoon memory laneを降りて、私たちは印鑑からモンゴルの MARK PENNINIのSolongo Garla * - LGBT Lifeを紹介します。

ソ連の現実主義的なウランバートルの建築の中であろうと、モンゴルの大草原に点在する数千人のゲーマーであろうと、モンゴルのLGBTの生活は存在しないようだ。 残虐行為、偉大な戦士、共産主義、厳格な社会規範と孤立によってパターン化された歴史を持つこの場所は、どのようにして標準から逸脱したものに対応できますか? それは少しの探索を必要としますが、ここではモンゴルではLGBTの場面が存在し、そのアイデンティティ、歴史の中の場所と未来への貢献は、やや軽い場合でも最終的に勢いを増しています。

モンゴル人の生活の柱は家族と愛国心です。 騒々しい歴史を通して、家族はおそらくモンゴル人の間で共有される唯一の安定したものとして役立っています。 田舎の家族は大きく、近くに住み、互いの生活を親密に分かち合います。 都市のモンゴル人の家族は通常小さいが、親密さは残る。 18歳から、モンゴル人は結婚して子供を負うという大きな圧力のもとに置かれています。 早期の育児を主張することは、モンゴル家に強い出生目的を与える。 このようなLGBTの人々のための環境は、セクシュアリティを探求するためのプライバシーをほとんど提供せず、すぐにそれらを子育ての期待と矛盾させます。

もちろん、いくつかの例外があります。 私は家族の少なくとも一部に出ている4人のゲイモンゴル人を知っています。 友人の母親は、彼女がいつも知っていたと言った。 彼らの信念と立場の力によって、ここでもっと活動家のLGBTモンゴル人のうちの2人が彼らの家族に出ている。 理解は遅いです。 1人は-35℃の冬の中頃に家から追い出されましたが、1年以内に歓迎されました。 奇妙なことに、別の友人は、彼のシャーマン兄弟モンゴルシャーマニズムは、精神との相互作用、意識の変化、占いと癒しを含む古代の精神性であり、何も明らかにすることなく彼の人生について知っていると語った。 これらの例はまれな例外で、ほとんどのLGBTモンゴル人は性別を厳重に監視しています。

この未収容の家族環境を強化することは、モンゴルの愛国心です。 モンゴルの独立は激しく戦われており、その国は現代の歴史の大部分に中国とソビエトの影響を受けている。 1990年代の民主主義革命以降、モンゴル社会はチンギスを過去に取り戻そうとしている。 西洋人はチンギス・カーンを征服者と見なすが、モンゴル人は彼を法律家としてもっと見る。 チンギス・カーンが、ソドミー行為のために死刑を宣告したモンゴル帝国の法的規範であるイク・ザサグ(Ikh Zasag)を創設したのは、この役割であった。 私はかつて、この法律がチンギス・カンの時代に同性愛者の存在を証明したことを、同性愛者のモンゴルの友人に示唆しました。 彼は単に、「いいえ、私には何もないと思う」と言っただけです。同性愛者のモンゴル人からのその応答は、LGBTの人々がモンゴルの歴史とアイデンティティからどれだけ消されたかを明らかにします。 70年の共産主義の排除と迫害の歴史によって現在も強化されているのは、現在復活しているのと同じ排除的遺産である。

LGBTモンゴル人を「非モンゴル人」として沈黙させ、最終的にはキャスティングする家族や国家の雰囲気にもかかわらず、LGBTモンゴル人は存続します。 約20年前、メイン広場の西側の場所で、同性愛者は集まり、曲を笛吹くことによって性的欲求を伝えました。 携帯電話、テレビフォーラム、インターネットの出現、特にチャットルームやFacebookの普及以来、プライベートでの会議はより簡単になっています。 1つの段階で、ウランバートルに2つの主要なLGBTの目的地がありました。 それらの目的地の1つ、「100%」と呼ばれるバーは悲しいことに閉鎖されました。 家主は彼らの評判を心配し始めた。 別のバー「オデッサ」も一時的に開かれましたが、すぐに閉鎖されました。 再び、家主の評判が上がっていました。 今、LGBTシーンは週末にナイトクラブで集まります。 幸いなことに、この場所はゲイモンゴル人が所有するものであり、借りたものではありません。 集まるスペースは、LGBTの人々の幸せ、アイデンティティ、成功のために不可欠です。

このナイトクラブでの集まりは、他の場所でパーティーシーンに悩まされるのと同じダイナミクスによって複雑になります。 しかし、LGBTシーンの小ささは、ほとんどの人がお互いを知っていることを意味します。 さまざまなグループがあり、多くは話すことのない用語です。 1つのグループとの関連付けは、他者による拒絶を急速に引き起こす可能性がある あるゲイモンゴル人はここでLGBTの生活を「オオカミのようなもの」と表現しています。ケンブリッジ人類学者、フランク・ビエは、モンゴルのLGBT生活を勉強した人を「後に恐喝を試みる人に対する不信と自己保護を反映している」と考えています。以前のパートナーを暴露する恐れがあることが知られています。 余分な保護として、ほとんどのLGBTモンゴル人は、誤った名前で行きます。 彼の本当の名前を私に明らかにするために私の親友を9ヶ月かかった。 私の外国人は、モンゴルのLGBTシーンの外にいるので、いつもよりも簡単に信頼する理由はほとんどありませんでした。

時々、まっすぐなモンゴル人がこのクラブを訪れることがあります。 言葉が出てきて好奇心を引き出します。 私の友人たちと私はかつて一人のモンゴル人(一人の女性と三人の男)が目を覚ましているのを見ました。 もっと無慈悲なトランスベスタイトが真っ直ぐな男の一人と踊ろうとしたときに、私たちは絶望の中でしか見ることができませんでした。 彼は熱狂的ではなかった。 しかし、典型的なモンゴルの謙虚さは、主に維持されています。 お互いの踊り以外にも、LGBTモンゴル人がここで手を携えているのは非常にまれです。 かつてクラブでキスしていた2人の外国人は、多くの汚れた顔をしていた。 1人のオーストラリア人が、クラブの裏側のモンゴル人にキスをしていることに気付きました。 ある友人は、「男は死にたいと思う」とコメントしています。モンゴルの社会規範の厳格さは、何らかの形でここにも残っています。

LGBTモンゴルのシーンへの直接的なモンゴル人によるより顕著な進出は、短編映画「ターミナル」であり、その一部は前記のクラブで撮影された。 この映画は、モンゴルの2人の男性の間にロマンチックな関係を描いています。 俳優を含むほとんどすべての映画に関与して、まっすぐだった。 私の友人がこのプロジェクトを支援するために連絡を取りました。 より活動的なLGBTモンゴル人の一人としての彼の役割は、映画の真正性を与えるのに重要であると考えられていた。 映画は非常に混在した受信を受けました。 別の友人は、それが「モンゴルのゲイの人生を代表するものではない」とコメントした。関わらず、ゲイの男性のストレートモンゴル人の俳優による描写は興味深い。 映画を手伝ってくれた私の友人は、自分たちのセクシュアリティを実験する洗練された方法を探していたかもしれないと思っていました。 彼らの理由が何であれ、LGBTモンゴル人は、彼らのまっすぐな同胞の間で何らかの形で受け入れることを奨励しているようだ。

事実、今年だけで初めて、国家議会はLGBTの権利について議論しました。 モンゴルのモンゴル活動家が「モンゴルLGBTコミュニティの歴史的な瞬間」として賞賛されたが、多くの人々は100カ国以上から1000人以上の代表者が出席し、すぐに議論が起こったと信じている。 すべての最後の分の通りの清掃のように、議論は怠慢の最後の最後の祝祭だった。 モンゴルは、LGBTの権利に関与していないため、国際社会から頻繁に批判されてきた。 LGBTセンターは、モンゴルの主要なLGBTの権利と保健機関です。 同センターの報告書には、LGBTの人々に対する深刻な誤解によって強調された殺人、拷問、強姦、警察の脅迫、家庭内侵入、職場差別などが詳細に記載されています。

国会での議論の背後にある動機にかかわらず、それは最終的に勢いが構築され始めていることを示しています。 LGBTのプライドイベントは9月に公然と開催されているという噂もありますが、友人はこれを「単なる夢」と表現しています。 これはおそらく勢いが増している別の指標です。 ショーの間に、人々がLGBTモンゴル人に対する彼らの意見を聞かれたところで一連のvoxポップインタビューが起こった。 私の友人は翻訳してくれました。 しかし、LGBTの人生と権利はここから始まり、非常に、非常に長い道のりがあることは明らかです。 モンゴルについての最も優れたドキュメンタリーの1つは、女優ジュリア・ロバーツの1999年のモンゴルの遊牧民家族への訪問を文書化した「モンゴルの野生の馬」であろう。 彼女のホストファミリーに感情的な別れをしている間、彼女はこう言います。「モンゴルの偉大な戦士たちは、私が今までに会った中で最も寛大で開かれた人たちの一人です」モンゴル人によって有名な寛大さとオープンな心が彼らのLGBTの国に。

出典元
https://themonsoonproject.org/2014/08/21/sex-sexuality-part-2-mongolia/





4年前に書かれた記事とは言え、恐らくどこよりも詳しく、誠実に書いたレポートだと思います。私なんか来日してからやっとLGBTの方たちのことを知りました、それまではやっぱり偏見を持っていました。

記事のモンゴルのゲーバーというのは多分の↓↓↓こちらのインタビュー映像のゾリグトさんの店だったと思います。ちなみに、彼は日本にも留学された経験を持つ、以外とすごい人です。



JICAの報告書によると、モンゴル国では 2011 年に「ジェンダー平等推進法(Law on Promotion of Gender Equality)」が策定され、政治領域・経済活動・行政・雇用や労働関係・教育・保健・家族関係の 7 つの分野において、モンゴル国で初めてとなるジェンダー平等が法律で定められるとともに、7 つの分野における政府の位置付けや役割が明確になったそうです。


LGBTI in Mongolia fighting for rights and recognition
https://www.scmp.com/magazines/post-magazine/long-reads/article/2103383/lgbti-mongolia-fighting-rights-and-recognition

Mongolia: Tales of a Dusty City, Friendly Nomads and a Few LGBT Natives
https://www.globalgayz.com/lgbt-life-in-mongolia/



毎度、編集長のタケシです。
私自身、普段から漫画を読んだり、アニメを見たりしないから知らなかったのですが、今放送している「アンゴルモア元寇合戦記」にモンゴルの話が出ていると聞いて調べてみました。

タイトルに元寇と書いてあるから、一瞬でモンゴル襲来の話だと分かりました。

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。
wikipediaより

元との戦いの最前線は、今でいう福岡の博多当たりです。


なお、文永の役の後、日蓮が当時の伝聞を下記のように書き留めています。
「元軍は対馬に上陸後、日本側の武士に勝ち、一般人を蹂躙した。
男は殺戮、あるいは捕虜とし、女は手のひらに穴を開けて鎖で船の壁に繋いだ」

個人的には、原作の漫画も読んでみたいです。




馬頭琴の演奏

アンゴルモア元寇合戦記、もう一つの見ところは4話に、馬頭琴を奏でるシーンがあります。もちろん馬頭琴の美しいメロディーが流れます。



演奏は知り合いのセーンジャーさんだったのです。オリジナル曲なのか、それともモンゴル民謡なのか、見る時にそのへんも注目して欲しい。

テレビで見れなかった方は、アマゾンビデオでも見れるようになっています。


おすすめご参考記事

元寇(文永の役・弘安の役) 神風の真実とは?漫画『アンゴルモア』で注目の戦いをスッキリ解説!

元寇(蒙古襲来)の勝因は神風ではなく鎌倉武士の頑張りだった?

【 世界最強・蒙古軍が襲来! 】日本の武士団は、フビライによる元寇に「神風」無しでも勝っていた!?
https://rekijin.com/?p=21559

皆様、こんにちは、ひでです。
久しぶりの寄稿になります。20160714-00059984-roupeiro-000-2-view日本において、およそ200年ぶりに今上陛下の皇太子殿下へのご譲位が来年5月に行われ、元号も平成から新元号に変わります。国民も新元号がなにになるか?実際に国民生活への影響もあることから改めて元号への関心が高くなりました。

ご存じの通り、元号(和暦・年号)発祥の地は隣国・中国です。史上初めての元号は前漢の武帝が使用した「建元」だと言われています。

では、中国を支配したこともあるモンゴルはどうだったのでしょうか?
 
実は中国王朝として一時期元号を使用していました。元代とその末裔である北元時代のことです。
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イェケモンゴルウルス(大モンゴル帝国)が中国を支配した13世紀前半の1271年、モンゴル帝国5代 皇帝(元朝初代皇帝)であるフビライ・ハーン(在位1271〜1294)が大都(北京)に都をおいて中国に君臨します。彼の業績は4年前に書いた寄稿をご参考頂ければ幸いです。
 
○フビライ・ハーン 大都への道
http://mongol.blog.jp/2014/01/23/51782372
○モンゴル帝国の「至宝」 大都
http://mongol.blog.jp/2014/01/30/51783157
 
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フビライは中国を支配するに辺り、中国皇帝として元号を制定しました。

すなわち「中統」です。「中統」と次の「至元」はフビライの年号として比較的有名です。
写真(「華夏古泉網」より転載)の通り「至元通宝」として通貨にもなっています。 

残念ながら出典は不明ですが、「中統」が「中原(中国)統一」、「至元」が「元(王朝)に至る」と容易に想像つきますが如何でしょうか?(出典わかる方がいたらコメントください(笑))

以下、歴代元朝・及び北元の年号の一覧を記載いたします。


1.中統(1260年 - 1264年)
2.至元(1264年 - 1294年)※
3.元貞(1295年 - 1297年)
4.大徳(1297年 - 1307年)
5.至大(1308年 - 1311年)
6.皇慶(1312年 - 1313年)
7.延祐(1314年 - 1320年)
8.至治(1321年 - 1323年)
9.泰定(1324年 - 1328年)
10.致和(1328年)
11.天順(1328年)
12.天暦(1328年 - 1330年)
13.至順(1330年 - 1333年)
14.元統(1333年 - 1335年)
15.至元(1335年 - 1340年)※
16.至正(1341年 - 1368年)

北元
1.至正(1368年 - 1370年)
2.宣光(1371年 - 1379年)
3.天元(1379年 - 1388年)

 
※「至元」はフビライとトゴンテルム(順帝)に2代に渡って2度使用されている。BogdKhan
余談になりますが、元号ではありませんが「無限紀元」によるモンゴル独自の年号としては「共戴紀元」と「チンジスハン紀元」があります。「無限紀元」とは西暦や皇紀(神武紀元)、民国紀元のように無限に続く紀念法の事です。

「共戴紀元」は1912年に清朝から外モンゴルが独立した際のボクト・ハーン(上写真)政権時代、「チンジスハン紀元」は内モンゴルの各自治政府で徳王政権の紀念法として使用されました。

ちなみに現在のモンゴル国、中国の内モンゴル、ロシアのブリヤートは共に西暦のみを使用しています。
 
寄稿:ひで

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皆様、こんにちは、ひでです。
久しぶりの寄稿になります。今日はちょっとした紀行文です。

今年の9月、チンジスハーンの祖先と日本で噂される源義経を訪ね、岩手県は平泉へ。

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広々とした衣川の古戦場や、奥州藤原氏の居館であった柳御所を見るにつけ、多くのことを思う。

松尾芭蕉
夏草や、兵どもが夢の跡

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この奥州の都に想いを馳せる多くの日本人がいた。

詳細は2014年に寄稿した記事をご覧になってください。
チンジスハーン=源義経伝説について
http://mongol.blog.jp/2014/06/24/51799049
チンジスハーン=源義経伝説について
http://mongol.blog.jp/2014/06/30/51799606
それにしても、なぜ日本人はこれほど政治的敗者に同情してしまうのか?そして、なぜまた海外の国と結び付けたがるのか?
そもそも義経は兄である源頼朝の追撃と圧力により、奥州平泉四代泰衡によって自害に追い込まれているのだ。首級はしっかり兄頼朝に送り届けられている。

そして、泰衡も頼朝軍に攻め滅ぼされた。
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平泉・中尊寺金色堂。ここに奥州藤原3代の遺体が安置されている。

この歴史上事実は事実であり、軍事バカで政治力ゼロの武将が招いた悲劇だと教訓にしなければならないはずなのに、「まだあの方は生きている」「老獪で冷酷な頼朝より純粋なイケメン義経のほうがいいーーーーーー」

とまるで反省もせず「判官びいき」をしてしまう日本人の悪い面。

少なくとも、私自身は「義経がハーンになった」と言ってうれしそうに評価するモンゴル人に会ったことは一度もない。日本人だって、中国人から秦の徐福が神武天皇になったんだ。と真顔で言われたら嫌だろうに。
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和歌山県新宮市にある徐福廟

自分のロマンを他人に押し付ける事はやはりいけない。そして「判官びいき」をしている限り、自分にも他人にも、そして企業や国にも勝利は来ない。と肝に銘じたい。

衣川の美しい光景を見ながら、そのように思った奥州路の旅であった。
(寄稿者:ひで)


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