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カテゴリ: 歴史

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エルヴィン・フォン・ベルツ(写真:Wikipediaより)

Хөх толботой юу?

日本語で、「けつが青い」という表現があります。その意味は、「経験が足りない」とか「未熟である」という意味で使われています。

確かに、筆者も小さい頃、お尻が青いアザがあったのをよく覚えています。親と一緒にお風呂に入っていた時、これの青いの何?と尋ねると、大人になると消える物だから心配しなくていい、って言われたことをよく覚えています。

ところで、この青いあざのことを、日本では「蒙古斑」と言われており、東アジアの子供にあるという見方がされています。モンゴル語ではХөх толбоもしくはМонгол толбоと言われています。

日本皮膚科学会のウェブページによると、以下のように説明されています。




青アザにはどのようなものがあるのですか?

「真皮にはメラノサイトが存在しないのが普通ですが、日本人など黄色人種では、大部分の赤ちゃんで、お尻から背中にかけて、真皮にメラノサイトがみられます。そのため、日本人の赤ちゃんのお尻から背中にかけて、青アザがあり、これを蒙古斑といいます。蒙古斑は生後2歳頃までには青色調が強くなりますが、その後徐々に薄くなり、10歳前後までには大部分が消失します。しかし約3%が成人になっても残り、その多くは直径2cm程度の円形の青色斑で、持続性蒙古斑(資料3)と呼ばれます。また稀に腕や足、お腹や胸などに蒙古斑が生ずることがあります。このような場所にできる蒙古斑は、異所性蒙古斑(資料4)と呼ばれ、年をとっても完全に消失しません。また顔面に生ずる青アザは太田母斑(資料5)、肩から肩甲骨にかけて生ずる青アザは伊藤母斑(資料6)と呼ばれ、これも自然に消失することはありません。」

出典:日本皮膚科学会 皮膚科Q&A アザとホクロ

実は、この青いあざが医学的に初めて定義したとされている人物は、明治時代に日本政府に招かれたドイツ人医師でした。そのドイツ人医師の名は、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Balz)でした。

このベルツ先生は草津温泉の効能を広めた人物だとされ、医学の発展に尽くした人物だとされています。

しかし、この蒙古斑、日本人・韓国人・中国人・モンゴル人などのモンゴロイドによく見られると思いきや、だいぶ昔の1938年の『家事と衛生』という雑誌に、蒙古斑という名称は不適切であると説明がされています。

「ベルツ」氏は始め蒙古人種特有のものと思つて蒙古斑と呼びました。然し其の後我國国學者の研究によつて蒙古人種のみならず白人種にもあることが判り、蒙古斑と云う名称が不適切であることが明らかになりました。

しかしながら、ベルツ先生が日本の医学に貢献したことは評価されており、さらに日本人女性と結婚して子供ももうけています。

ベルツ先生が誕生したビーティーグハイム・ビッシンゲン市は日本の群馬県にある草津町と姉妹都市提携を結び、今でも交流を深めているそうです。



草津町にもドイツ的なスポットがたくさんあるようです。



ビーティーグハイム・ビッシンゲン市の旧市街地には、立派な日本庭園があり、日本語での説明がたくさんあります。

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ベルツ先生記念碑

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「君によりて日本医学の花ひらく」

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筆者は草津温泉に行ったことがありますが、滅茶苦茶の熱湯で、熱いというよりも熱すぎて「痛い」でした。これは、病気に効くよなぁと感じました。

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↑草津温泉

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筆者は、モンゴルの奥テレルジでも温泉に入ったことがあります。モンゴルのお坊さんが発見して秘境の中の秘境の幻の温泉で、どんな病気も治るとされているところでしたが、滅茶苦茶ぬるかったです。冷たくはないですが、全く温かくない。湯から上がると、とにかく寒い。でも、腰の痛みや傷が翌日に治ってビビりました。


今回は、ここまで。

MongolMeaning
ケンブリッジ英英辞書のMongolより、モンゴルの第二の意味で「ダウン症を持つ人に対する非常に攻撃的な言葉」と定義している。

※不快になる話ですが、こういう偏見が存在しているというのを事前に知っておく必要はあるかと思います。いざ偏見や差別に対峙したとき、どう対応するか心の準備ができるようになるためです。


ちょっと前の話ですが、ベルギー出身のレッドブルに所属するF1レーサーのマックス・フェルスタッペン氏のレース中での発言が物議を醸しだしました。

彼がレース中に他のレーサーと衝突をしてしまった際に、罵る言葉として「Mongol(モンゴル:知恵遅れ)」、「Retarded(馬鹿野郎、知恵遅れ)」と言ってしまいました。その件が明るみに出て、モンゴル政府が国連を通して、レッドブルにクレームを出したとのことです。

ニュース記事(日本語):
F1エミリア・ロマーニャGP金曜会見(2):フェルスタッペンが接触時の暴言を謝罪「ランスを侮辱する意図はなかった」


ニュース記事(英語):
Max Verstappen: Mongolian government registers official complaint with UN against Red Bull driver’s ‘mongol’ comments at Portuguese GP


Red Bull warns Verstappen over mongol insult


侮辱後が伏せられていますが、これが実際のレースの様子らしいです(YouTube)


そもそも、なぜ「モンゴル」という単語が「Retarded」あるいは「Basterd」みたいな行儀の悪い意味で使われるのか、よくわかりませんでした。

素朴に、なぜ?と疑問に思いました。

調べてみると、イギリスの新聞紙The Independent(インディペンデント)にて、英国に住むモンゴル人によって体験談を踏まえて詳しく書かれていました。

以下、拙訳です。


なぜ『モンゴル』『モンゴロイド』『モンジー』という言葉が、いまだに侮辱の意味で使われているのか?」Why are the words 'mongol', 'mongoloid' and 'mongy' still bandied about as insults?



https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/tv/features/why-are-words-mongol-mongoloid-and-mongy-still-bandied-about-insults-9878557.html

在英のモンゴル人女性・ウガナー・ラムジーさんは、彼女の息子のようなダウン症の人たちだけでなく、彼女の民族の誇りである名前がどのようにして攻撃的な言葉として使われるようになったのかを探る。


↑ウガナー・ラムジーさんのTwitterアカウント

4年前にスコットランドの病院で次男を出産したウガナー・ラムジーさんは、「何かがおかしい」と言われた。いくつかのテストの後、彼女と彼女の夫であるハワードは、彼らの新生児ビリー君は余分な染色体を持っていたことを知らされ、ダウン症候群と診断された。

夫婦はひどく打ちひしがれた。ようやく家に帰ることができたとき、医師はラムジーさんを個人的な話をするために残した。医師は、彼女を慰めようと、モンゴル生まれのラムジーさんに対して「おそらくダウン症は、彼女のモンゴル人の民族性のためにビリー君の外観にはそれほど目立たないだろう」と言い放った。

「それは私を不快にさせた 。」とラムジーさん(37歳)は言う。「私は傷ついた。私は彼らがその言葉で慰めになることを意味していることを知っていたとしても。」 それは、ラムジーさんの先住民族であるモンゴロイドと障害者の俗語との間に見知らぬ人が作った、多く連なる連想であった。

モンゴル、モンゴロイド、モンジー − これらは、ダウン症の人だけでなく、特別な障害を持つ人に対しても、愚人を攻撃する言葉と同様に、侮辱として使われ続けている。しかし、この連想はどこから来たのか?そして、それがモンゴル人にどのような影響を与えたのか?その答えを探すために、ラムジーさんはドキュメンタリー「The Meaning of Mongol」を制作し、今晩BBCラジオ4で放送している。



結局のところ、この言い回しはイギリスだけで使われているわけではない。ラムジーさんは、モンゴルはすべての大陸の20カ国以上で軽蔑的な言葉であることを指摘している。

彼女が「モンゴル」が別の意味を持っていることを初めて知ったのは19歳の時であった。ラムジーさんは英語を学びながら、育った西モンゴルのザヴハンで羊やヤギを放牧していた時、辞書を持ち出していた。言葉は彼女を魅了していた。ある日、彼女はモンゴル語を調べた。「モンゴルの人々」という一次的な意味だけでなく、その下には二次的な使い方があった。それは障害、特にダウン症に関係していた。

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ケンブリッジ英英辞書のMongolより

「それはとても鮮明に覚えています」と彼女は振り返る。「私の民族を表す言葉が、別の意味を持っていることに違和感を覚えました。私は本当に理解できませんでした。それは私を不安にさせました。もっと知りたいと思ったが、私は10代だったので、そのままにしておきました。」

数年後、ラムジーさんはロンドンで外国語として英語を教える勉強をしていた。ある日、中国とフランスから来た二人のクラスメートが彼女に声をかけてきた。「モンゴルから来た人があなたのように普通で賢いとは知らなかったわ」と言われた。彼女は彼らが何を意味しているのかわからなかったし、彼女はそれを笑い飛ばした。

その後、彼女がスコットランドでキャリアアドバイザーとして働き始めたとき、教室や運動場で子供たちが侮辱として「モンゴル」という言葉を投げかけているのを聞いた。

「なぜ彼らがこのようなことを言っているのかを探ろうとしましたが、同僚は説明してくれませんでした」と彼女は言う。ラムジーさんが再びこの違和感のある連想に出くわしたことを、ビリー君の診断後、彼女はダウン症について読み上げていたときの出来事であった。

ダウン症の用語としてモンゴロイドやモンゴロイドが使われるようになったのは、1860年代にジョン・ラングドン・ダウンという医師が『Observations on an Ethnic Classification of Idiots(馬鹿の民族分類に関する考察)』という論文を発表したときのことで、彼はこの論文の中で、異なる種類の疾患を民族的特徴によって分類することが可能であると主張している。

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ジョン・ラングドン・ダウン(John Langdon Haydon Down)
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↑※ひどい内容ですが、この論文の英語の原典はNatureの以下のサイトで閲覧することができます:
OBSERVATIONS ON AN ETHNICCLASSIFICATION OF IDIOTS


それ以前は、ダウン症の人は単に「idiot(バカ)」と分類されていた。ラムジーさんのドキュメンタリーの中で、ダウンの伝記作家であるコナー・ウォード教授は、ダウンが優れた衛生士であり、学習障害を持つ人々のために王立アールズウッド養護施設(Royal Earlswood Asylum for Idiots)に採用された経緯を説明している。

ダウンは、彼が治療していた人々のグループに共通の外観を持っていることに気付き、その時に「モンゴル人の愚鈍性」という診断を下した。

1866年の論文の中で、ダウンは次のように書いている:「モンゴル人の大家族には、(彼の患者の中に)多数の代表者がいて、私がこの論文で特別な注意を払いたいのは、この分割についてである。非常に多くの先天性の馬鹿者は典型的なモンゴル人である(A very large number of congenital idiots are typical Mongols)。このことは、比較して見ると、比較された標本が同じ親の子供ではないとは思えないほど顕著である。」

他の箇所では、彼は頬の丸み、目の形、その他様々な身体的特徴について書いており、このグループの子供たちはモンゴル民族のタイプへの回帰であることを示唆している。アールズウッド養護施設でモンゴル民族の誰もが治療を受けたことを示唆する記録はない。

後にダウンは自分の研究を疑った。彼は10年の研究の後、骨相学への信念を捨て、人の性格や知性は頭の形や外見から推測できるという見解に背を向けていた。

しかし、彼の言葉の造語は続いた。

ダウンの同時代人たちも彼の理論に懐疑的で、医学論文では『いわゆるモンゴルの馬鹿(so-called Mongolian idiot)』という言葉を使うようになった。それからの100年間、ダウン症の人を表現するのにモンゴルが使われていた。

1959年にフランスの遺伝学者ジェローム・ルジューヌ(Jerome Lejeune)がダウン症の原因(21番染色体の余分なコピー)を発見した後、医学者たちがモンゴロイドやモンゴロイドとは別の用語を使うことを提案しはじめた。当時の著名な遺伝学者たちは(ダウン氏自身の孫を含む)、この用語が東洋の人種への軽蔑的なものであることを主張して、ランセット誌、世界有数の医学雑誌に共同で手紙を書き、この前提のための新しい名前を要求した。

モンゴル政府自身も見直しを求めた。モンゴル政府は1961年に国連に加盟した後、1965年に世界保健機関(WHO)に加盟し、「モンゴロイド」という名称の変更を求めた。それ以来、この障害は「ダウン症」と呼ばれるようになった。

「モンゴル」や「モンゴロイド」は1980年代までイギリスの病院で使われ続けた。ドキュメンタリーの中で、作家で映画監督のサラ・ボストンは、1975年に出産し、医師が 「あなたの子供はモンゴロイドです」と言って赤ちゃんを手渡したことを回想している。彼女がダウン症の子供を育てた経験についての本を書いたとき、出版社はタイトルに「モンゴル」という言葉を使いたがった。1991年のことである。

今でもモンゴロイドという言葉は、虐待や障害者への侮辱として使われてる。 リッキー・ガーヴェイスは2011年に 「ギャグ 」をリツイートして炎上した。「二人のMongs(モンゴル)が右に曲がることはない」とリツイートしたことで炎上した。彼は謝罪を拒否し、コメディーショー(スタンドアップ・ルーティン)にMong(モンゴル)を題材にした寸劇を追加したこともあった。結局、世間からの圧力を受けて、彼は身を引いて、この言葉を使ったことが間違いだったことを認めた。


↑Dailymail紙による炎上に関する記事

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↑炎上した リッキー・ガーヴェイスによるツイート(出典:Dailymailより)。上から「二人のモンゴル人は右に曲がれない。はは。この問題について最後の言葉だ。お疲れさん。」「モンゴルは『かつて』ダウン症の蔑称だったこと、ゲイは『かつて』幸せの意味だったことを指摘したみんな、よくやった。言葉は変わる。よろしくな。」「全ての知り合いのモンゴル人のためにリツイートしてくれ、あとモンゴル人をクソ黙らせろ」「モンゴルがなんだって?、のろまで、馬鹿な奴らのことだろ。俺はこの言葉をダウン症の意味で絶対に使わないけどな。」


↑Dailymail紙にて障害を持つ子供の母親が泣いたことを受けて「障害を持つ人たちを侮辱することに気付かず、この言葉を使うことに私は無頓着だった。」と謝罪をしている。しかし、この記事の中でモンゴル人やモンゴル政府に対して謝罪の言葉は一言も触れられていない。さらに、障害を持つ親ですらも「自分の娘が馬鹿にされている」とまで言っている始末である。

ラムジーさんにとって、祖国の人々の名前が不快な俗語にもなっている国で暮らすことは難しいことであった。彼女はダウン症スコットランドが実施した調査に関わるようになり、この言葉の使用がまだ10代の若者の間で流行っていることが分かった。「それは私を不快に感じさせ、動揺させた」と彼女は言う。「それは軽蔑的だった。モンゴル人と自己紹介している場合、人々はそれを違った聞き方をします。それは、人々が笑うので、自信に大きな影響を与えます。それはもう同じ言葉ではありません。」

そんな気持ちから逃れ、かつてのモンゴル人であることへの誇りを取り戻そうと、ラムジーさんは9月に8年ぶりに故郷に戻ってきた。彼女の訪問はドキュメンタリーの中で捉えられており、モンゴルの人々の気迫のこもった姿が描かれている。ラムジーさんにとって、モンゴル人に対する既存のネガティブなイメージを払拭するためには、彼女の同胞と女性の真実の描写を提示することが重要であった。

国連のページにあるPDFファイルのリンク:
Side event dedicated to the World Down Syndrome Day and CSW 60"Changing stereotypes against people with Down syndrome:THE MEANING OF MONGOL" 

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モンゴルの文化・スポーツ・観光大臣であるオユンゲレル・ツェデブダンバ(Оюунгэрэл Цэдэвдамба)氏はドキュメンタリーの中で、「モンゴル人は皆、自由を愛する民族です。」と言う。

この国の変化に富んだ風景には、なだらかな台地、砂丘、高山の森、氷河などがあり、ドキュメンタリーの中では、一連の撮影を通して、その姿が浮かび上がってくる。ラムジーさんは家族や友人を訪ね、ウォッカを飲み、馬糞(アルガル)を燃やして火を起こす。ラムジーさんは、人々がお互いの家を訪問するときに乳製品をお土産に持ってくるのは、白が純粋さと無邪気さを表しているからだと話している。

「他の場所と同じように、幸せな人と不機嫌な人がいます。」「でも、空はいつも青くて晴れていて、それが人々を少しだけ幸せにしてくれると思います。そして夜になると、そこでは最も多くの星を見ることができます」。

ラムジーさんの息子ビリー君は、生後わずか3ヶ月まで生きた。ドキュメンタリーの中の感動的なシーンの一つで、彼女はザブハンの家族に息子の写真を見せている。

「モンゴルでは誰かが亡くなると、その人は神になると言われています。」

ほとんどのモンゴル人は、世界的にモンゴル語が広く使われていることを知らない。「しかし、モンゴルでは誰もがモンゴル人なので、そのような問題に直面することはありません」とツェデバンバは指摘する。

ラムジーさんは、モンゴル語のスラングをやめさせたいと考えている。それは、彼女のためにも。

The Meaning of Mongolは月曜日の夜8時からBBCラジオ4で放送されています。(以下はポッドキャストのリンクです。番組を聞くことができます。英語の勉強にどうぞ。)



【筆者コメント】
なかなか衝撃的なのが、権威ある医者が堂々とIdiot(馬鹿者)やIdiocy(馬鹿、愚鈍)という言葉を論文に記載して発表して、それが受け入れられていたという点です。このため、モンゴル→ダウン症っぽい→だから馬鹿、というありえない、差別的な考えが広まってしまった結果になったと言えます。

160年前に英国の医者がこういってしまったために広がったMongolというダウン症を指す表現ですが、徐々に改善はされていますが、まだ2020年になっても罵り言葉で出てくるぐらいですから、この問題は根深いかと思われます。

また、子供を持つ親としても、ダウン症の子供が生まれたときどう接していくべきか、どう対応はしてくべきか、どう向き合うべきか、という心配もあるかと思います。

公益財団法人日本ダウン症協会は、以下のようにダウン症について説明しています:

Q1:ダウン症は病気ですか?
人間は一人ひとり、違いをもっています。ダウン症は、生まれつきの特性(性格や体質のようなもの)の一つと考えたほうがいいと思います。

Q2:なぜダウン症になるのですか?
私たちの体のたくさんの細胞の中には、46本の「染色体」というものが入っています。たまたまそれを47本もって生まれてきたのが、ダウン症のある人たちです。
偶発的に起こることがほとんどで、誰にでも起こり得ることです。600〜800人に1人の割合で生まれるとされています(引用元:小児慢性特定疾病情報センター)。

出典:公益財団法人日本ダウン症協会「ダウン症のあるお子さんを授かったご家族へ」より

欧州にいると、依然としてアジア人に対して見下したり、馬鹿にする人がたまにいますが、科学的根拠を以て、堂々と毅然とした態度で諭してあげる必要があると思います。

残念ながら、ドイツ語の辞書DUDENでも、Mongolchenという単語は、ダウン症を伴う子供という意味で説明されていますが、Educalingoというサイトで「蔑称的な下地のために今日では陳腐化している」という説明でとどまっています。
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↑Educalingoよりhttps://educalingo.com/de/dic-de/mongolchen

しかし、たちが悪いのが、上述したF1レーサーやコメディアンからあるように、彼らは非があってもまず謝らないところがあります。すぐに泣き寝入りせず、あくまで論理的に客観的に証拠をもって毅然として対応する必要があるかと思われます。

日本人、韓国人、中国人、モンゴル人、これらの国の人たちはヨーロッパ人からすると見た目が似ているので、それだけで理不尽な目に遭うことがありますが、各自の文化に誇りをもって臨むべきでしょう。

また、筆者も親として3ヶ月で夭折したビリー君、また上のリンクに出てくるダウン症の子供たちどの子をを見ても可愛いと思えます。

今回は、ここまで。

ノモンハンの地平
【写真】細川呉港著「ノモンハンの地平」(光人社NF文庫)

 細川呉港著「ノモンハンの地平―草原紀行 ホロンバイルの過去と現在」(光人社NF文庫)を読んだ。
 満洲(現在の中国東北部)の北西、ロシアやモンゴルとの国境地帯に広がるホロンバイル大草原を訪ねた紀行文である。現代の日本人があまり行かない地域なので、探検記のようでもある。同時に1945年8月のソ連軍侵攻で玉砕したハイラルの地下要塞や1939年のノモンハン事件(モンゴルではハルハ川戦争)の舞台を訪ねて、シベリア抑留につながる悲惨な歴史を振り返った戦争論にもなっている。
 この著者には「草原のラーゲリ」(文藝春秋)という大著がある。ホロンバイルの遊牧民の子として生まれたソヨルジャブというダゴール・モンゴル人の数奇な運命を描いた本だ。ソヨルジャブさんは、チチハルの師範学校で日本語を学び、さらに日本人の学校ハルピン学院を卒業して、ハイラルの省公署(県庁)職員のときに満洲国崩壊を経験する。その後、ウランバートル、フフホト、青海省のラーゲリ(収容所)生活を続け、その間、中国の文化大革命の荒波にもまれる…。
 ソヨルジャブさんと同じようにホロンバイルで子ども時代を送ったブリヤート・モンゴル人のツェベクマさんに鯉渕信一さんが聞き書きした「星の草原に帰らん」(NHK出版)も、とても興味深い。
 ツェベクマさんは、司馬遼太郎の通訳を務めたことで知られるが、彼女もソヨルジャブさん同様、日本式教育の学校で日本語を覚えた。「星の草原に帰らん」では、ホロンバイルの草原を裸足で駆け回り、足がこごえると、真新しい牛の排せつ物に足を突っ込んで暖を取る野性味あふれる少女時代が生き生きと描かれている。
 堺六郎著「シベリアのラーゲリを逃れて―ホロンバイルからシベリアへ」(筑摩書房)も、ホロンバイルについての記述が私の心に残る。堺さんは、ハイラル特務機関ウルシュン連絡所員として、酒や雑貨を販売しながら現地情勢を探る任務に当たっていたが、突然のソ連参戦でシベリア送りとなる。この本では、自らの体験を、ホロンバイルは「天国」、シベリアは「地獄」と対照的なタッチで描いている。
 ホロンバイルは、かつて多くの日本人が活躍し、日本に親しんだモンゴル人も多かった地域である。その歴史は、しっかりと記憶にとどめなければならないと私は考える。「ノモンハンの地平」で著者は「満洲国を、ただ侵略者として日本の歴史のなかで一刀両断に切り捨ててしまうことは、あまりにも浅薄にすぎる」と書いている。また「満洲国を『偽満洲国』と呼び歴史の中から抹殺しようとするに至っては論外である」とも指摘して、政治的プロパガンダで歴史を語る中国の姿勢を批判している。
 
▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

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まいど、編集長のタケシです。

現在の公文がキリル文字のみになっていますが、モンゴル政府は2025年から現在内モンゴルで使われているモンゴル文字を、キリル文字と併用して全面的に使うと発表しました。

徐々にモンゴル文字の復活と普及に取り込んでいくそうです。



モンゴル文字を失った経緯とは?


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1921年、モンゴルはソビエト連邦の「支援」により独立しました。その後、ソビエト連邦は部隊を駐留させ、モンゴルの内政と外交も支配するようになりました。

そのため、ソビエト連邦は領土内の多くの地域に言語政策を実施しました。

モンゴルが、今のキリル文字に変わったのはこういう背景があるからです。

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モンゴル文字からラテン文字、そしてキリル文字に変えていきました。

1931年、モンゴル人民共和国はモンゴル語のラテン語化の決定を採択し、その後10年間で、モンゴルで出版された本の中にウイグル文字、ラテン文字、キリル文字などのモンゴル語が共存しました。

しかし、1941年からキリル文字に統一され、伝統的なウイグル文字のモンゴル文字が消えてしましました。


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ウイグル文字の使用の減少により、キリル文字モンゴル文字の普及を促進する過程で、多くのモンゴル国民は以前の歴史文書を読むことが困難になります。さらに、キリル文字モンゴル語の​​綴りの基礎は、モンゴルで一般的に使用されるカルカ方言です。その過程で、キリル文字モンゴル語に多数のロシア語が追加されました。

言語の変更は、伝統的なモンゴル語の​​意味合いに影響を与えました。

モンゴル文字を復活の取り込みとは?



1990年代、ソビエト連邦の崩壊により、モンゴルの伝統的な言語を回復することを支持するモンゴルの声が強くなりました。 1992年、モンゴル国大議会は、モンゴルが徐々にモンゴルに戻ることを発表しました。

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2003年、モンゴルは、毎年5月の第1週に「エスニックライティングカルチャーフェスティバル」を開催すると発表しました。 2014年、モンゴルは中国内モンゴル自治区の書道協会の会員も招待しました。モンゴルの小学生の最初の週である2009年には、当時のエルベグドルジ大統領も国営ラジオ局で生放送し、ウイグル文字で書かれた「馬」の意味を伝え、この伝統的な台本の重要性を強調しました。 


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2011年、モンゴルは、政府のメンバーと国際機関が海外の同じレベルの職員と通信する場合、公式文書と手紙はモンゴル語でなければならないことを規定しました。

モンゴル国民の出生証明書、結婚証明書、あらゆるレベルの教育機関が発行する関連証明書、および卒業証明書も、ウイグル語モンゴル語とキリル文字モンゴル語で並べて書かなければなりません、など。

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モンゴル文字が復活すれば、TwitterやFBでモンゴルの情報がたくさん出てくるかもしれないね。今のところはミスターモンゴルの情報しかありません。(笑)



堺さんの本
【写真】堺六郎著「シベリアのラーゲリを逃れて―ホロンバイルからシベリアへ」(筑摩書
房)の表紙

 娘が立って行って十能のようなものに牛糞の燠(おき)を置き、その上に香を振りかけて各人に廻してよこした…蒙古の奥地で埃にまみれながら嗅ぐ抹香の匂いは、なんともすがすがしく、心の奥底まで浄化されるような気がした―。

 堺六郎著「シベリアのラーゲリを逃れて―ホロンバイルからシベリアへ」(筑摩書房)の102ページに書かれた一節だ。1944年の暮れ、満洲国の外モンゴル国境地帯。著者は、吹雪の中、ホロンバイル(フルンボイル)大平原のポツンと一軒家のようなモンゴル人の家にたどり着いた。食事でもてなされ、寝ようとしたら、香を焚いてくれた。穏やかな気持ちで眠りにつけるようにとの配慮なのか。

  モンゴル人にとっては当たり前のことかもしれないが、私には、究極の精神文明のように思いながら読んだ。不便な生活を送っていても、客人をもてなす心の余裕を持っている人々は豊かなのではないかと考えてしまう。

 著者は、1918年、福島県喜多方市の生まれ。満洲拓殖公社や兵役を経て、東蒙古株式会社に入社し、ウルシュンを拠点に酒や雑貨の販売をしていた。一方、ハイラル特務機関ウルシュン連絡所の一員として現地の情勢を探る任務もあった。

 この本の前半は、「蒙古放浪」のタイトルで、ホロンバイルの草原の一つ「メヌンタラ」の自然、モンゴル人(バルガ族、ブリヤート族)や満人との交流、そして冒頭のような体験談が次々と描かれる。

 後半は、「シベリアのラーゲリを逃れて」の題で、終戦直前の再応召、日ソ開戦、妻子の死、シベリアでの抑留生活が描かれる。抑留は28歳から40歳まで。著者は「わたしにとっては悪夢のような空白の12年であった。消しゴムで消せるものなら消してしまいたい…」と書いている。

 この本は、ホロンバイルは天国、シベリアは地獄―と対照的に記述し構成したものだと私は思う。

 著者は1956年12月、やっと帰国した。帰国後は、宮城県蔵王町の遠刈田温泉近くでニジマスの養殖場を経営し、この本は1987年に出版された。

 私は50年前、著者の堺さんのニジマス養殖場に2週間、居候したことがある。友人の父親が共同経営者だった関係で、友人と一緒にお世話になった。

 堺さんは、塗炭の苦しみを経験されたせいか、とても穏やかな人だったと記憶している。私たちに、羊肉の塊を塩ゆでした「チャナスンマッハ」をごちそうしてくれた。そのとき、「ジンギスカン焼き、あれは日本料理だ」と説明した。モンゴルについて話すときは、いつも静かな語り口だったが、シベリアの話になると「ロスケ」という言葉を何度も口にした。

 私にとっては初めてのモンゴル話だったが、そのときは、それで終わった。当時の私は、モンゴルよりもシベリア抑留に関心があったと思う。

私がモンゴルについて興味を持ったのは、1998年、山形市で勤務していたとき、モンゴル人の留学生に出会ってからだ。モンゴルの歴史や民俗について自分なりに勉強し始めたとき、堺さんのことを思い出した。仙台に戻って、しばらくしてから、ご自宅を訪ねると、堺さんは入院していた。奥さんによると、来客とお話しできる状態ではないという。この本は、そのとき、奥さんからいただいた。その後、堺さんは他界してしまった。

  もっと早く、元気なうちにお会いして、ホロンバイルの思い出話を、じっくりと聞いておけばよかったと後悔している。

▽森修 もり・しゅう 
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。


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