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カテゴリ: 書評・書籍

アムラルト病院

【写真】山辺さんの著書。名前は山辺も慎吾も旧字体が使われている
 
   アムラルト病院。モンゴル語で休養、休息を意味する病院だ。ウランバートルの東部、ダンバダルジャー(ダンバドルジ)寺院の隣にあった。山辺慎吾さんの著書「ウランバートル捕虜収容病院」(草思社)は、このアムラルト病院での体験記だ。

 1945年8月、日本の降伏後、旧満洲にいた日本兵ら60万人がソ連軍の捕虜となり、強制連行、強制労働させられた。いわゆるシベリア抑留だ。このうち1万2300人がモンゴルに抑留され、羊毛やレンガの工場、岩山からの石の切り出し、道路や建物の建設、樹木伐採など過酷な労働を強いられた。

 著者は、羊毛工場に駆り出された後、アムラルト病院で、捕虜ながらソ連・モンゴル側の下働きをさせられた。病院には、栄養失調、赤痢、結核などの患者や凍傷、作業事故で負傷した日本人が収容された。治療は、捕虜の日本人医師、衛生兵らが当たった。山辺さんは、モンゴル語を独学したことから、事務連絡などの業務に当たった。

 山辺さんは、患者が死亡すると、遺体の内ももに硝酸を使って番号を書いたり、死者を荷車に載せ、寺院と病院の北、山の斜面に運び、埋葬したりもした。遺体は、日本とモンゴルが国交を結んだ後、掘り返され、火葬して祖国に帰った。墓所の跡は、日本人慰霊碑が立つ公園となっている。

 この本には、ロシア人の女性院長が情夫を自宅に連れ込む様子や、モンゴル兵士が包茎の手術を頼み込んできたり、精神に異常を来した日本人が桶の汚物を頭からかぶる様子なども赤裸々につづられている。

 この本は、仙台市内の古本屋で見つけた。私は、春日行雄著「ウランバートルの灯みつめて五十年」(モンゴル会)を探していたのだが、なかった。そのかわり、山辺さんの本を購入した。山辺さんの著書には、春日さんが、モンゴル語ができる医師として、日本人捕虜の権利を守るために、ソ連・モンゴル側と交渉に当たったことが書かれている。

 ネットで調べると、春日さんは、抑留から解放された後、モンゴルの子どもたちを支援する「テムジンの友塾」を開き、日モ交流に尽くしたことがわかる。

 春日さんと「モンゴル会」の仲間である友弘正雄さんは、凍傷のためアムラルト病院で両足切断の手術を受けた。抑留から帰国後、友弘さんは春日さんと同じように、モンゴルの子どもたちのために活動した。このことは、中京テレビのモンゴル人記者が「バヤルタイ〜モンゴル抑留72年越しのさようなら」という番組でレポートした。私はネットで番組を見た。
 
  強制連行、強制労働で多数の犠牲者を出したことは、日本人としては憎悪の対象にもなる負の遺産だと思う。それでも、春日さんや友弘さんが日モ交流に尽力してきたのは、どんな思いだったのか。

 私は、2012年10月、アムラルト病院跡を訪ねた。今にも崩れそうな無残な姿をさらしているのを見て、なんとかならないものかと思った。それが、2018年9月に行ったときは、元の姿に建て替えられていた。診療は再開していなかった。だれが、なんのために、新しく建て替えたのか。何かの記念碑にするつもりなのか。

 2019年10月に訪れたときは、病院と寺院の北側の山に遊歩道が整備されていた。周辺を公園にする計画があることも知った。

 このときは、ダンバダルジャーの西のゲル地区にできた「ノゴーンノール(緑湖)公園」を取材した。日本人捕虜が、スフバートル広場周辺の道路整備などのため、岩山の石を切り出した跡にできた大きな穴に雨水がたまり、ゴミ捨て場になっていたのを、地元民のウルジートクトフさんが、ボランティアで公園に整備していた。彼は「日本人捕虜のことがわかる資料館をつくりたい」と話していた。

 ダンバダルジャーの日本人慰霊碑、アムラルト病院、ノゴーンノールの3カ所は、モンゴル抑留を後世に伝えるためにワンセットでとらえたい。日本人にとっては負の遺産かもしれない。しかし、現在は公園として整備が進んでいる。もしも、ウランバートル市民の憩いの場となったら、モンゴルと日本の交流を示す未来志向の記念碑になるのではないか。山辺さんの本を読んで、そんなことを思った。

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▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。


鯉渕さんの本

【写真 杆驀漆一さんの著書「騎馬民族の心」

 亜細亜大学の教授や学長を務めた鯉渕信一さんの著書「騎馬民族の心 モンゴルの草原から」(NHKブックス)を読んだ。モンゴルの慣用句、ことわざ、民話、「モンゴル秘史」などを例に引きながら、モンゴルの国柄、国民性を解説している。「なるほど」と思いながら読んだ。
 
 男の喜び、無人の大平原―。モンゴル人の自由な精神を象徴する言葉だ。広漠とした大平原にただひとり、孤独に耐えて家畜を追って生きることは生易しいことではない。危険と隣り合わせだ。しかし、孤高に生きるからこそ、何ものにも頼らない不羈独立の精神を養い、自由を誇りとする遊牧民の気質を生んだようだ―という。
 
 モンゴル国の首都ウランバートル市は人口150万の大都会だ。モンゴルは遊牧文化の国だが、ウランバートルにいて、そんな伝統を感じることはほとんどない。しかし、ちょっと郊外に足を延ばせば、無人の大平原、自分を支配する者のいない大地が広がっている。土地にしがみついて暮らす農耕民族とは違う自由な生活が繰り広げられてきたんだろうなあと、想像できる。
 
 遊牧生活による自給自足の経済は、資本主義経済とは対極にある。究極のシンプルライフとも言われたりしている。この本でも、モノに執着しない、簡素に生きるモンゴル人の価値観を紹介している。
 
 もちろん、時代は変化している。現代の遊牧民は、オートバイにまたがり、ゲルの中でテレビを見て、スマホを操る。しかし、モンゴルの魅力は何かと問われれば、私はやっぱり、孤高に生き、自由を尊ぶ遊牧民が暮らす無人の大平原なのではないかと思う。
 
 モンゴルは、最盛期には世界の五分の三におよぶ広大な版図を持っていた。これは単に馬を駆って、刀を振りかざす勇猛さだけではなし得なかった。合理主義の精神があったからだと鯉渕さんは書いている。遊牧生活で培われた情報力、機動力を駆使し、敵が弱ければ攻め、強ければためらわずに退く柔軟性。兵士10人で組織する「十人長」を基本に、百人長、千人長、万人長と大きくなる軍制もしっかりしていた。
 
 チンギス汗はじめ歴代の汗たちの優れた資質の一つに、異文化に対する寛容さと、高い文化に対する謙虚な尊敬の心をあげることができる(84ページ)。「習俗に従って治めよ」の方針が貫かれたという。武力で制圧してみたものの、あまりにも少数のモンゴル人が、広大な地に広がる圧倒的多数の異民族を統治し続けるのは難しい。宗教が異なるからといって弾圧したりせず、外国人を積極的に登用したりする合理性を持っていた。
 
 モンゴル語は、家畜および牧畜用語に関する語彙の豊かさを誇る言語であることも書かれている。馬の毛色にしても、基本の毛色に、斑紋による違い、頭や鼻、たてがみ、尻尾など部位による分類、年齢や性別による違いもあり、モンゴル人はこれらを詳細に識別しているそうだ。モンゴル人の色彩感にも関係するが、馬に関する言葉はかなり奥が深い。

騎馬民族の心―モンゴルの草原から (NHKブックス)
鯉渕 信一
日本放送出版協会
1992-03T






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星の草原
鯉渕さんの著書には、司馬遼太郎の通訳を務めたブリヤート・モンゴル人のツェベクマさんに聞き書きした「星の草原に帰らん」(NHK出版)もある。ツェベクマさんは、司馬遼太郎の「草原の記」(新潮文庫)のヒロインだが、ロシアに生まれ、中国の内モンゴルからモンゴル国へと移り住む波乱の人生を送ったことが記されており、味わい深い。「草原の記」には鯉渕さんも登場する。「星の草原に帰らん」と合わせて読むと、「草原の記」は、鯉渕さんがいたからこそ世に出たのではないかと思えてくる。

星の草原に帰らん
バルダンギン ツェベクマ
日本放送出版協会
1999-08T



寄稿者ご紹介

森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

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島村一平(国立民族学博物館)
青土社 ||歴史/ドキュメント:ヒップホップ・モンゴリア (http://seidosha.co.jp)

なぜモンゴル?

 私の専門は文化人類学で、モンゴルのシャーマニズムの研究をしてきた。シャーマニズムを研究してきた私がなぜヒップホップに興味を持ったか。今回はその経緯を少しお話したい。
 私は大学卒業後、東京でテレビの制作会社で勤めていた。そんな私がモンゴルに興味を持つきっかけは、1994年8月のことである。ドキュメンタリー番組の取材で初めてモンゴルの地を踏んだのがはじまりだ。番組は、ジャズミュージシャンの坂田明がモンゴル・中央アジアを旅しながら現地の民族音楽の奏者とセッションをするという内容のものだった。そのスタッフの一人に私は選ばれたのだった。

そのモンゴルでのロケ中のことだ。一日のロケが終了して、大草原で満点の星を眺めていた。そのとき、なぜか、ひょっとして俺は前世、この国で生まれたのではないだろうか」という想念が浮かんだ。今、考えると単なる妄想だったのかもしれないが、日本に帰国してもその感覚は残っていた。早くモンゴルへ帰りたかったのである。そして番組のオンエア後、会社に辞表を出した。

そして1995年夏、モンゴルに留学をした。最初は首都ウランバートルで語学を学びながら、ドキュメンタリーを撮ろうと思っていた。そんな中、シャーマニズムの情報を小耳にはさんだ。モンゴル北部のロシア国境に近い辺境に住むダルハド族(人)の間では、森の中で古代から連綿とつづくシャーマンの儀礼を行っているのだという。“神秘的な古代の呪術師”のイメージは、私を虜にするのに十分だった。1年が過ぎ、興味に誘われるがまま、大学院を受験しモンゴル国立大学の大学院に進学した。専攻は民族学である。そこで多くの友人が出来たし、恋もした。

ウランバートルという街

90年代半ばのウランバートルは、人口60万人ほどの静かな町だった。その後人口は、25年ほどの間に2倍以上に膨れ上がったが、当時はこぢんまりとしていた。そして街路樹の少ない荒涼とした町だった。町の中心部を占める官庁や大学、劇場や銀行といった大きな建物はロシア風建築(ソ連風)である。それを囲むかのように日本の昭和30-40年代に造られた公団住宅に似た無機質な団地群が広がっている。

正直、アジア的な風情があまり感じられない。商店の看板もすべてロシアのキリル文字。しかも少し前まで社会主義だったので、どこへ行ってもスーパーやドラッグストアの看板には「食料品店」、「薬局」としか書かれていない。おまけに看板のレタリングまで同じである。まるで初期のファミコンの解像度の低いドラクエの街の中を歩く気分になる。これは、少し前まで店という店はすべて国営商店だったからだ。こうした商店は、私の留学した95年当時はすでに民営化してはいた。ただ店に「AEON」「マツモトキヨシ」といった固有名をつけるという発想がまだなかったのである。
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▲撮影 島村一平

また建物の外壁の塗装がひび割れや剥がれが目立ち、道路のマンホールは空いたまんま。マンホールの中はかつてマンホール・チルドレンと呼ばれたストリート・チルドレンたちの世界だ。どこかしら廃墟感のある町、それがウランバートルだった。ただし関西のとある巨大な公団団地で育った私にとって、こうした無機質な団地の世界は、地元(フッド)を感じるほど居心地がよかった。団地の子は、長じても団地の風景にノスタルジーを抱いてしまうのである。それに団地の住民にある種の連帯感があるのはモンゴルも同じだった。ロシアから来た留学生たちは、この町はまるでロシアの地方都市みたいだ、とよく言っていた。とにかくウランバートルは「モンゴルらしさ」が感じられない町であることは確かだった。団地群の周囲に広がるゲル地区を除けば、の話なのであるが。

草原をフィールドワーク

一方、ひとたびウランバートルを出ると緑の大草原が広がっている。そこは悠久の昔から変わらぬであろう(実際は違うのだが)、草原に白い天幕(ゲル)が浮かぶ遊牧民たちの世界だった。民族衣装に身を包んだ遊牧民たちが馬に乗って羊を放牧していた。夏に当時、ウランバートルで暮らす日本人たちの間では「ウランバートルはモンゴルではない。本物のモンゴルは草原にある」という語りがよくなされていた。

そんなアドバイスを待たずとも、草原の遊牧世界というエキゾチズムの誘惑に抗えなかった。そこで私は調査対象として、ウランバートルの団地に居心地よさを感じながらも、結果的に草原や森での「冒険」を選んだ。まずは北の辺境、フブスグル県でダルハドのシャーマニズムに関するフィールドワークを始めることにしたのである。そしてモンゴルの大学院で民族学の修士号をとって、帰国したのは1998年の12月。3年半のモンゴル暮らしだった。

そして1999年、大阪の国立民族学博物館に併設された総合研究大学院大学の博士課程に入学する。テーマは、迷わずシャーマニズム研究を選んだ。2000年4月、助成金を得てモンゴルに渡ると本格的なフィールドワークを開始した。1年間、ウランバートルを基地にして600km離れたシャーマニズム文化が色濃いドルノド県の調査地で1-2ヶ月滞在して調査をしてはウランバートルに戻る。ウランバートルでは、1ヶ月かけて草原で得た調査データを整理し、調査計画を練り直し、またドルノド県へと調査へと向かう。これを数回、繰り返していく。結果的に私のモンゴル滞在は、留学の3年半と合わせると6年に及んだ。そして街と草原の往還を繰り返していく中で、奇妙なことに気がついた。

ヒップホップの勃興

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▲撮影 島村一平 

2000年当時、ウランバートルではヒップホップが爆発的に流行っていた。ラジオをつければ、英語のヒップホップに混ざってモンゴル語のヒップホップがいつも流れていた。中には、アメリカのヒップホップを彷彿とさせるようなビートもあったが、小気味よくモンゴル語で頭韻を踏んでいくスタイルは確かにモンゴル・オリジナルだった。

ところが、ひとたびドルノド県に戻ると、草原でシャーマンたちがシャーマンドラム(革張りの手太鼓)を打ち鳴らしながら民謡調の祈祷歌を歌っている。やはり悔しいくらい韻を踏みまくっている。草原でシャーマニズムの祈祷歌、街に帰るとヒップホップ。つまり草原にいても都市にいても、モンゴルの韻踏み合うサウンドスケープの中に私は全身を浸していたのだった。こうした環境は、私にとってシャーマニズムとヒップホップという全くジャンルの異なる文化実践の中に文化的連続性を想起させるに十分であった。ちなみにシャーマニズムとヒップホップの関連については、「韻の憑依性」をキーワードに本書の4章で深堀りしている。

一見するとモンゴルの草原と都市は、まるで別世界である。そしてモンゴルといえば、メディアなどで紹介されるのは、草原の遊牧民の世界が圧倒的に多い。大草原の遊牧民にモンゴル相撲に馬頭琴。それに加えてチンギス・ハーンといった具合だ。近年、学術的には都市社会への注目は高まってきたものの、メディアでウランバートルという都市を生きるモンゴル人が描き出されることは非常に少なかった。ところがいまやモンゴルの人口の半分がウランバートルに居住し、現代的な都市生活をおくっている。それに対して、われわれ日本人は、モンゴルの都市生活についていったい何を知っているのだろう。
日本で「モンゴルに留学していた」と話すと、「あの草原のパオみたいなところに住んでいたのですか」とびっくりされることが多い。多くの人が表現も含めて同じリアクションだったりする。ちなみに遊牧民の天幕は「ゲル」であって「パオ」ではない。てか、パオは「包子(パオズ)(丸い蒸餃子)」に似ているといって中国人が名づけた蔑称だし。それにウランバートルは神戸や京都なみの人口規模の大都市だって誰も知らないのか。あれだけモンゴル人の相撲取りが日本に来ていて、しかもほとんどがウランバートル出身者なのに、彼らの故郷には何も関心を示さない。そして横綱の「品格」がどうのこうのといった日本社会への同化度ばかりが話題になる。あまりに切ないではないか。

近年、ウランバートルの人々はグローバル経済に巻き込まれ、貧富の格差や環境汚染といった問題に悩まされてきた。モンゴル・ヒップホップは、こうしたグローバルな経済格差によって、世界の片隅で咲いたあだ花かもしれない。いずれによ、ウランバートルでは、ブルックリンやコンプトン、川崎や西成同様にヒップホップが社会をざわつかせている。ヒップホップ・モンゴリアを知るということは、我々の世界の「リアル」を知るということでもある。モンゴルのラッパーたちが歌い生み出す世界は、我々が今ここで生きている世界とも確実につながっているからだ。

分断されたモンゴル民族

 モンゴル・ヒップホップを理解する上でもうひとつ知っておかなくてはならないのは、モンゴル人と呼ばれる人々が民族的に分断状況にあるという事実である。いわゆるモンゴル人は人口320万人のモンゴル国以外にも中国内モンゴル自治区や・新疆ウィグル自治区・青海省にも居住している。その数は実はモンゴル国より多い500万人以上だといわれている。またロシアのバイカル湖周辺にはモンゴル系のブリヤート人(あるいはブリヤート・モンゴル人)が30万人ほど居住している。さらにロシアのカスピ海沿岸部にはモンゴル系のカルムィク人が16万人ほど暮らしている。要するに民族がロシア、モンゴル、中国の三カ国に分断されているというわけだ。

民族が分断しているという点において、モンゴルは韓国と北朝鮮、あるいはイラク・イラン・トルコなどに跨って暮らすクルド人などと似ているかもしれない。とりわけ故郷を喪失した人々のことをディアスポラという。もともとはユダヤ人に対して使われた言葉だが、モンゴル人もディアスポラだといってよい。
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▲写真提供 TOONOT Record 

近年、モンゴル人たちも、国境を越えてインターネットを通じてヒップホップで連帯をしはじめている。その状況は、インド出身のアメリカの文化人類学者アルジュン・アパデュライが唱えた「ディアスポラの公共圏」が形成されているといってもいいだろう。ただし国境で分断された「モンゴル人」たちの状況は一筋縄ではいかない。例えば、中国領内のモンゴル人たちの「モンゴル国」に対する感情は複雑である。中国の支配下にあって唯一の民族の独立国であるモンゴル国に憧れに近い気持ちを抱いている。ところがモンゴル国の人々は、「内モンゴル人」のことを「中国化したモンゴル人」あるいは単純に中国人とみなしており、それを内モンゴル人自身もよく知っている。その板挟みの切ない気持ちや抑圧的な漢人たちへの怒りを内モンゴルのラッパーたちは、音楽に込めて歌っている。

ロシアのブリヤート人たちは、バイカル湖周辺に住むモンゴル語系の言語を話す民族だ。17世紀初頭に西から毛皮や地下資源を求めてやってきたロシア人と半世紀以上に及ぶ戦いを挑んだ誇り高き人々である。しかし17世紀末、戦いに敗れ帝政ロシアの臣民となるが、文化的には、言語のほかに牧畜、チベット仏教やシャーマニズムといったモンゴルと共有する文化をもっている。しかし20世紀以降、自分たちはソ連によって文明化・近代化された結果、モンゴルより高い文化水準を持つ固有の民族となった、と考えるようになった。その一方で現在もロシア人による支配を快く思っていない人が多い。とまれ、中国やロシアにおける「少数民族」としてのモンゴル人の置かれている立場は厳しい。
こうした内モンゴルの置かれた状況をケンブリッジ大学の社会人類学者オラディン・ボラグは、「故郷にいながらのディアスポラ(diaspora in home)」と形容した。故郷に住み続けているが主権を喪失してしまっている。そしてモンゴル国に理想の故郷増を見出す。そんな彼らの心情を見事に言い当てた言葉である。ちなみに彼自身も内モンゴル出身で現在は英国籍のディアスポラでもある。こうした矛盾をはらみながらもヒップホップを通じた公共圏が築かれつつ様子は本書の7章で深く扱っている。

以上、本書の一部を抜粋しながら、桜井編集長の質問に答えて見た。本書を通じて、グローバルな世界に置かれたモンゴル人の状況が少しでも伝わるならば、幸いだ。本書は、実際のモンゴル・ヒップホップが聞けるようにYOUTUBEのリンクがたくさん貼ってある。ぜひ、本を通じて音楽も聴いてもらえればうれしい。今までのモンゴルイメージとは異なるクールなモンゴルがそこにあるはずだ。

国立民族学博物館・学術資源研究開発センター・准教授。文化人類学・モンゴル研究専攻。博士(文学)。
1969年愛媛県生まれ、兵庫県西宮市育ち。1993年早稲田大学法学部を卒業後、ドキュメンタリー番組制作会社に就職。取材で訪れたモンゴルに魅了され制作会社を退社、モンゴルへ留学する。1998年モンゴル国立大学大学院修士課程修了。モンゴルにはのべ6年滞在した。2003年総合研究大学院大学博士後期課程単位取得退学。国立民族学博物館講師(機関研究員)・滋賀県立大学人間文化学部准教授を経て現職。2013年度日本学術振興会賞、地域研究コンソーシアム賞、2014年度大同生命地域研究奨励賞をそれぞれ受賞。

ヒップホップ・モンゴリア
島村 一平
青土社
2021-02-13


バイカルの本
【写真 曠丱ぅル桜美林大教授の新著の表紙

 桜美林大学でモンゴルの歴史・文化を教える都馬バイカル教授の新著「スウェーデン宣教師が写した失われたモンゴル」(桜美林大学出版会)が出た。昔のモンゴルの貴重な写真を多数紹介しており、とても興味深い。
 
 写真は、スウェーデン人宣教師のJ・エリクソン(1890―1987年)がモンゴルに滞在していた1913―1938年と1947―1948年に撮影した。彼は、チャハル地域(現在の中国内モンゴル自治区シリンゴル盟とウランチャブ市)で宣教活動していたので、写真は、ほとんど内モンゴルで撮影されたものだが、一部ガンダン寺など現在のウランバートルで撮影されたものもある。これらの写真は、スウェーデンのウプサラ大学図書館に所蔵されており、同大のS・ローゼン教授の手で整理されてきた。
 
 著者は、2018年、ローゼン教授の協力で、1384枚の写真をスキャンし、研究に着手。このうち530枚を抜粋し、「今は無きモンゴル一端」「遊牧生活・家畜」「男女の服装と女性の頭飾り」「徳王と草原の人々」「仏教信仰の実相」「宣教師たちの足跡」の6部構成で編集し、出版した。
 
 最初に紹介されているのは、嗅ぎたばこを交換しながら、あいさつしている写真。著者は「現在の内モンゴルでは完全に消えてしまった」と解説している。
 
 私は2010年1月、ウランバートルで結納式に同席したことがある。式では最初に、新郎と新婦の父親が、嗅ぎたばこを交換しながら、あいさつした。そこはマンションの一室で、両者とも椅子に座っていた。大草原の太陽の下で、またはゲルの中で、このような習慣は今も続いているのだろうか。

だん茶
【写真◆杆之礎磧屬世鹵磧廚鮑佞遊牧民。右手に、小さなうすのような容器があり、これですりつぶしてから湯をそそぐ(66ページ)
 
66ページでは、レンガのような硬い「だん茶」を斧で砕いている写真を紹介している。小さいうすのような容器で、すりつぶしている写真もある。現代では、袋入りのお茶がスーパーなどで売られているので、こんな光景は見られないのではないか。

ゲルの中で食事
【写真】ゲルの中で食事。昔のモンゴルは、日本と同じように、椅子は使わず座卓だ(67ページ)

 ゲルの中での食事の写真もある(67ページ)。椅子に座るのではなく、座卓の前であぐらをかき、茶わんと箸を使って食べている。昔の日本の食事風景に似ている。私は、新モンゴル小中高の年配の教員が、昔の教室を再現した授業を見たことがある。そこでも座卓のような机を使っており、椅子はなかった。
 
 生々しい写真もある。何もない荒野に遺体が横たわっているだけの風葬の写真だ。現代では、土葬か火葬なので、とても貴重な写真だと思う。

 昔の人々が、どのような服装をしていたのかを示す写真は数多い。特に女性の頭飾りなど装飾品を紹介している。乳しぼり、牛ふん拾い、移動の様子など遊牧関係の写真も多い。

 モンゴル国では、ウランバートルなど都市に定住する人が多く、昔ながらの遊牧生活は急速に失われつつある。「ウランバートルはモンゴルではない」と言われたりするほどだ。南モンゴル(内モンゴル)でも遊牧民の定住化は進んでいる。それだけに、昔の写真は、「なつかしい」というだけでなく、記録としての意味は大きい。

▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

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まいど、編集長のタケシです。

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

ご存じの通り、昨年はたいへんな一年となりました。
世界ではコロナウイルスの感染で、大勢の人がなくなりました。
そして、モンゴル圏では内モンゴルでモンゴル語教育の縮小、廃止が行われ、モンゴル文化の存続に直結する大きな悲劇となりました。

そんな、いろいろあったわけですが、今年は早く平和が戻るように願います。

Amazon売り上げベスト10


毎年恒例の、当ブログ経由で買われた本ベスト10を紹介したいと思います。

今回は、売れ筋ランキング形式で紹介します。なので、モンゴルとまったく関係ない本もありますのでご了承ください。

1位「鬼滅の刃」

漫画
「鬼滅の刃」がトップの座を取りました。
当ブログで紹介したことはないが、リンクを踏んでから、買われたようです。

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
吾峠呼世晴
集英社
2016-06-17



2位「低金利時代の不動産投資で成功する人、失敗する人

景気が悪いと牛丼やユニクロなどの売上は伸びます。
そして、金持ちは金や不動産に金を回します。
まぁ、不動産投資は王道ですよね。




3位「文明の生態史観」

以外だったかもしれないが、内モンゴルの急変(モンゴル語教育禁止)背景にあったと思われます。一時期、下記の記事がアクセス急上昇してたので、その時に買われたようです。

梅棹忠夫『文明の生態史観』から論考する草原の地の奪い合いについて

文明の生態史観 (中公文庫)
梅棹 忠夫
中央公論新社
1998-01-18


位「中古ワンルーム2戸からはじめる家賃40万円稼ぐ黄金の法則

そして、再び不動産関連の本がランクインしました。
コロナで住む家を手放す人もいる中、儲かっている人はリスク分散のために不動産を買います。
日本は少子化、高齢化がまじまじやばいから、不動産投資やるなら東京、駅から徒歩で7分以内、ワンルームマンションがオススメです。


5位「モンゴルを知るための65章



6位「草はらに葬られた記憶

草はらに葬られた記憶「日本特務」
ミンガド・ボラグ
関西学院大学出版会
2019-10-10


7位「方言が明かす日本語の歴史



8位「世界史の誕生 ――モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫)



9位「内モンゴルを知るための60章

内モンゴルを知るための60章 (エリア・スタディーズ)
ボルジギン ブレンサイン
明石書店
2015-08-01


10位「墓標なき草原――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(上)










以上、昨年売られた本ベスト10でした。

こういうデータを見える化することによって、その年の人々の関心だったり、時代の背景を表したりしていると思います。

今年は、どんな一年になるか、どんな一年にして行くか、楽しみですね。
それでは、引き続きよろしくお願いします。

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