モンゴル情報クローズアップ!

モンゴルの文化、ビジネス、投資、観光、最新話題など幅広い情報をお届けします。(通称:モンゴルなう)

カテゴリ: 書評・書籍

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島村一平(国立民族学博物館)
青土社 ||歴史/ドキュメント:ヒップホップ・モンゴリア (http://seidosha.co.jp)

なぜモンゴル?

 私の専門は文化人類学で、モンゴルのシャーマニズムの研究をしてきた。シャーマニズムを研究してきた私がなぜヒップホップに興味を持ったか。今回はその経緯を少しお話したい。
 私は大学卒業後、東京でテレビの制作会社で勤めていた。そんな私がモンゴルに興味を持つきっかけは、1994年8月のことである。ドキュメンタリー番組の取材で初めてモンゴルの地を踏んだのがはじまりだ。番組は、ジャズミュージシャンの坂田明がモンゴル・中央アジアを旅しながら現地の民族音楽の奏者とセッションをするという内容のものだった。そのスタッフの一人に私は選ばれたのだった。

そのモンゴルでのロケ中のことだ。一日のロケが終了して、大草原で満点の星を眺めていた。そのとき、なぜか、ひょっとして俺は前世、この国で生まれたのではないだろうか」という想念が浮かんだ。今、考えると単なる妄想だったのかもしれないが、日本に帰国してもその感覚は残っていた。早くモンゴルへ帰りたかったのである。そして番組のオンエア後、会社に辞表を出した。

そして1995年夏、モンゴルに留学をした。最初は首都ウランバートルで語学を学びながら、ドキュメンタリーを撮ろうと思っていた。そんな中、シャーマニズムの情報を小耳にはさんだ。モンゴル北部のロシア国境に近い辺境に住むダルハド族(人)の間では、森の中で古代から連綿とつづくシャーマンの儀礼を行っているのだという。“神秘的な古代の呪術師”のイメージは、私を虜にするのに十分だった。1年が過ぎ、興味に誘われるがまま、大学院を受験しモンゴル国立大学の大学院に進学した。専攻は民族学である。そこで多くの友人が出来たし、恋もした。

ウランバートルという街

90年代半ばのウランバートルは、人口60万人ほどの静かな町だった。その後人口は、25年ほどの間に2倍以上に膨れ上がったが、当時はこぢんまりとしていた。そして街路樹の少ない荒涼とした町だった。町の中心部を占める官庁や大学、劇場や銀行といった大きな建物はロシア風建築(ソ連風)である。それを囲むかのように日本の昭和30-40年代に造られた公団住宅に似た無機質な団地群が広がっている。

正直、アジア的な風情があまり感じられない。商店の看板もすべてロシアのキリル文字。しかも少し前まで社会主義だったので、どこへ行ってもスーパーやドラッグストアの看板には「食料品店」、「薬局」としか書かれていない。おまけに看板のレタリングまで同じである。まるで初期のファミコンの解像度の低いドラクエの街の中を歩く気分になる。これは、少し前まで店という店はすべて国営商店だったからだ。こうした商店は、私の留学した95年当時はすでに民営化してはいた。ただ店に「AEON」「マツモトキヨシ」といった固有名をつけるという発想がまだなかったのである。
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▲撮影 島村一平

また建物の外壁の塗装がひび割れや剥がれが目立ち、道路のマンホールは空いたまんま。マンホールの中はかつてマンホール・チルドレンと呼ばれたストリート・チルドレンたちの世界だ。どこかしら廃墟感のある町、それがウランバートルだった。ただし関西のとある巨大な公団団地で育った私にとって、こうした無機質な団地の世界は、地元(フッド)を感じるほど居心地がよかった。団地の子は、長じても団地の風景にノスタルジーを抱いてしまうのである。それに団地の住民にある種の連帯感があるのはモンゴルも同じだった。ロシアから来た留学生たちは、この町はまるでロシアの地方都市みたいだ、とよく言っていた。とにかくウランバートルは「モンゴルらしさ」が感じられない町であることは確かだった。団地群の周囲に広がるゲル地区を除けば、の話なのであるが。

草原をフィールドワーク

一方、ひとたびウランバートルを出ると緑の大草原が広がっている。そこは悠久の昔から変わらぬであろう(実際は違うのだが)、草原に白い天幕(ゲル)が浮かぶ遊牧民たちの世界だった。民族衣装に身を包んだ遊牧民たちが馬に乗って羊を放牧していた。夏に当時、ウランバートルで暮らす日本人たちの間では「ウランバートルはモンゴルではない。本物のモンゴルは草原にある」という語りがよくなされていた。

そんなアドバイスを待たずとも、草原の遊牧世界というエキゾチズムの誘惑に抗えなかった。そこで私は調査対象として、ウランバートルの団地に居心地よさを感じながらも、結果的に草原や森での「冒険」を選んだ。まずは北の辺境、フブスグル県でダルハドのシャーマニズムに関するフィールドワークを始めることにしたのである。そしてモンゴルの大学院で民族学の修士号をとって、帰国したのは1998年の12月。3年半のモンゴル暮らしだった。

そして1999年、大阪の国立民族学博物館に併設された総合研究大学院大学の博士課程に入学する。テーマは、迷わずシャーマニズム研究を選んだ。2000年4月、助成金を得てモンゴルに渡ると本格的なフィールドワークを開始した。1年間、ウランバートルを基地にして600km離れたシャーマニズム文化が色濃いドルノド県の調査地で1-2ヶ月滞在して調査をしてはウランバートルに戻る。ウランバートルでは、1ヶ月かけて草原で得た調査データを整理し、調査計画を練り直し、またドルノド県へと調査へと向かう。これを数回、繰り返していく。結果的に私のモンゴル滞在は、留学の3年半と合わせると6年に及んだ。そして街と草原の往還を繰り返していく中で、奇妙なことに気がついた。

ヒップホップの勃興

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▲撮影 島村一平 

2000年当時、ウランバートルではヒップホップが爆発的に流行っていた。ラジオをつければ、英語のヒップホップに混ざってモンゴル語のヒップホップがいつも流れていた。中には、アメリカのヒップホップを彷彿とさせるようなビートもあったが、小気味よくモンゴル語で頭韻を踏んでいくスタイルは確かにモンゴル・オリジナルだった。

ところが、ひとたびドルノド県に戻ると、草原でシャーマンたちがシャーマンドラム(革張りの手太鼓)を打ち鳴らしながら民謡調の祈祷歌を歌っている。やはり悔しいくらい韻を踏みまくっている。草原でシャーマニズムの祈祷歌、街に帰るとヒップホップ。つまり草原にいても都市にいても、モンゴルの韻踏み合うサウンドスケープの中に私は全身を浸していたのだった。こうした環境は、私にとってシャーマニズムとヒップホップという全くジャンルの異なる文化実践の中に文化的連続性を想起させるに十分であった。ちなみにシャーマニズムとヒップホップの関連については、「韻の憑依性」をキーワードに本書の4章で深堀りしている。

一見するとモンゴルの草原と都市は、まるで別世界である。そしてモンゴルといえば、メディアなどで紹介されるのは、草原の遊牧民の世界が圧倒的に多い。大草原の遊牧民にモンゴル相撲に馬頭琴。それに加えてチンギス・ハーンといった具合だ。近年、学術的には都市社会への注目は高まってきたものの、メディアでウランバートルという都市を生きるモンゴル人が描き出されることは非常に少なかった。ところがいまやモンゴルの人口の半分がウランバートルに居住し、現代的な都市生活をおくっている。それに対して、われわれ日本人は、モンゴルの都市生活についていったい何を知っているのだろう。
日本で「モンゴルに留学していた」と話すと、「あの草原のパオみたいなところに住んでいたのですか」とびっくりされることが多い。多くの人が表現も含めて同じリアクションだったりする。ちなみに遊牧民の天幕は「ゲル」であって「パオ」ではない。てか、パオは「包子(パオズ)(丸い蒸餃子)」に似ているといって中国人が名づけた蔑称だし。それにウランバートルは神戸や京都なみの人口規模の大都市だって誰も知らないのか。あれだけモンゴル人の相撲取りが日本に来ていて、しかもほとんどがウランバートル出身者なのに、彼らの故郷には何も関心を示さない。そして横綱の「品格」がどうのこうのといった日本社会への同化度ばかりが話題になる。あまりに切ないではないか。

近年、ウランバートルの人々はグローバル経済に巻き込まれ、貧富の格差や環境汚染といった問題に悩まされてきた。モンゴル・ヒップホップは、こうしたグローバルな経済格差によって、世界の片隅で咲いたあだ花かもしれない。いずれによ、ウランバートルでは、ブルックリンやコンプトン、川崎や西成同様にヒップホップが社会をざわつかせている。ヒップホップ・モンゴリアを知るということは、我々の世界の「リアル」を知るということでもある。モンゴルのラッパーたちが歌い生み出す世界は、我々が今ここで生きている世界とも確実につながっているからだ。

分断されたモンゴル民族

 モンゴル・ヒップホップを理解する上でもうひとつ知っておかなくてはならないのは、モンゴル人と呼ばれる人々が民族的に分断状況にあるという事実である。いわゆるモンゴル人は人口320万人のモンゴル国以外にも中国内モンゴル自治区や・新疆ウィグル自治区・青海省にも居住している。その数は実はモンゴル国より多い500万人以上だといわれている。またロシアのバイカル湖周辺にはモンゴル系のブリヤート人(あるいはブリヤート・モンゴル人)が30万人ほど居住している。さらにロシアのカスピ海沿岸部にはモンゴル系のカルムィク人が16万人ほど暮らしている。要するに民族がロシア、モンゴル、中国の三カ国に分断されているというわけだ。

民族が分断しているという点において、モンゴルは韓国と北朝鮮、あるいはイラク・イラン・トルコなどに跨って暮らすクルド人などと似ているかもしれない。とりわけ故郷を喪失した人々のことをディアスポラという。もともとはユダヤ人に対して使われた言葉だが、モンゴル人もディアスポラだといってよい。
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▲写真提供 TOONOT Record 

近年、モンゴル人たちも、国境を越えてインターネットを通じてヒップホップで連帯をしはじめている。その状況は、インド出身のアメリカの文化人類学者アルジュン・アパデュライが唱えた「ディアスポラの公共圏」が形成されているといってもいいだろう。ただし国境で分断された「モンゴル人」たちの状況は一筋縄ではいかない。例えば、中国領内のモンゴル人たちの「モンゴル国」に対する感情は複雑である。中国の支配下にあって唯一の民族の独立国であるモンゴル国に憧れに近い気持ちを抱いている。ところがモンゴル国の人々は、「内モンゴル人」のことを「中国化したモンゴル人」あるいは単純に中国人とみなしており、それを内モンゴル人自身もよく知っている。その板挟みの切ない気持ちや抑圧的な漢人たちへの怒りを内モンゴルのラッパーたちは、音楽に込めて歌っている。

ロシアのブリヤート人たちは、バイカル湖周辺に住むモンゴル語系の言語を話す民族だ。17世紀初頭に西から毛皮や地下資源を求めてやってきたロシア人と半世紀以上に及ぶ戦いを挑んだ誇り高き人々である。しかし17世紀末、戦いに敗れ帝政ロシアの臣民となるが、文化的には、言語のほかに牧畜、チベット仏教やシャーマニズムといったモンゴルと共有する文化をもっている。しかし20世紀以降、自分たちはソ連によって文明化・近代化された結果、モンゴルより高い文化水準を持つ固有の民族となった、と考えるようになった。その一方で現在もロシア人による支配を快く思っていない人が多い。とまれ、中国やロシアにおける「少数民族」としてのモンゴル人の置かれている立場は厳しい。
こうした内モンゴルの置かれた状況をケンブリッジ大学の社会人類学者オラディン・ボラグは、「故郷にいながらのディアスポラ(diaspora in home)」と形容した。故郷に住み続けているが主権を喪失してしまっている。そしてモンゴル国に理想の故郷増を見出す。そんな彼らの心情を見事に言い当てた言葉である。ちなみに彼自身も内モンゴル出身で現在は英国籍のディアスポラでもある。こうした矛盾をはらみながらもヒップホップを通じた公共圏が築かれつつ様子は本書の7章で深く扱っている。

以上、本書の一部を抜粋しながら、桜井編集長の質問に答えて見た。本書を通じて、グローバルな世界に置かれたモンゴル人の状況が少しでも伝わるならば、幸いだ。本書は、実際のモンゴル・ヒップホップが聞けるようにYOUTUBEのリンクがたくさん貼ってある。ぜひ、本を通じて音楽も聴いてもらえればうれしい。今までのモンゴルイメージとは異なるクールなモンゴルがそこにあるはずだ。

国立民族学博物館・学術資源研究開発センター・准教授。文化人類学・モンゴル研究専攻。博士(文学)。
1969年愛媛県生まれ、兵庫県西宮市育ち。1993年早稲田大学法学部を卒業後、ドキュメンタリー番組制作会社に就職。取材で訪れたモンゴルに魅了され制作会社を退社、モンゴルへ留学する。1998年モンゴル国立大学大学院修士課程修了。モンゴルにはのべ6年滞在した。2003年総合研究大学院大学博士後期課程単位取得退学。国立民族学博物館講師(機関研究員)・滋賀県立大学人間文化学部准教授を経て現職。2013年度日本学術振興会賞、地域研究コンソーシアム賞、2014年度大同生命地域研究奨励賞をそれぞれ受賞。

ヒップホップ・モンゴリア
島村 一平
青土社
2021-02-13


バイカルの本
【写真 曠丱ぅル桜美林大教授の新著の表紙

 桜美林大学でモンゴルの歴史・文化を教える都馬バイカル教授の新著「スウェーデン宣教師が写した失われたモンゴル」(桜美林大学出版会)が出た。昔のモンゴルの貴重な写真を多数紹介しており、とても興味深い。
 
 写真は、スウェーデン人宣教師のJ・エリクソン(1890―1987年)がモンゴルに滞在していた1913―1938年と1947―1948年に撮影した。彼は、チャハル地域(現在の中国内モンゴル自治区シリンゴル盟とウランチャブ市)で宣教活動していたので、写真は、ほとんど内モンゴルで撮影されたものだが、一部ガンダン寺など現在のウランバートルで撮影されたものもある。これらの写真は、スウェーデンのウプサラ大学図書館に所蔵されており、同大のS・ローゼン教授の手で整理されてきた。
 
 著者は、2018年、ローゼン教授の協力で、1384枚の写真をスキャンし、研究に着手。このうち530枚を抜粋し、「今は無きモンゴル一端」「遊牧生活・家畜」「男女の服装と女性の頭飾り」「徳王と草原の人々」「仏教信仰の実相」「宣教師たちの足跡」の6部構成で編集し、出版した。
 
 最初に紹介されているのは、嗅ぎたばこを交換しながら、あいさつしている写真。著者は「現在の内モンゴルでは完全に消えてしまった」と解説している。
 
 私は2010年1月、ウランバートルで結納式に同席したことがある。式では最初に、新郎と新婦の父親が、嗅ぎたばこを交換しながら、あいさつした。そこはマンションの一室で、両者とも椅子に座っていた。大草原の太陽の下で、またはゲルの中で、このような習慣は今も続いているのだろうか。

だん茶
【写真◆杆之礎磧屬世鹵磧廚鮑佞遊牧民。右手に、小さなうすのような容器があり、これですりつぶしてから湯をそそぐ(66ページ)
 
66ページでは、レンガのような硬い「だん茶」を斧で砕いている写真を紹介している。小さいうすのような容器で、すりつぶしている写真もある。現代では、袋入りのお茶がスーパーなどで売られているので、こんな光景は見られないのではないか。

ゲルの中で食事
【写真】ゲルの中で食事。昔のモンゴルは、日本と同じように、椅子は使わず座卓だ(67ページ)

 ゲルの中での食事の写真もある(67ページ)。椅子に座るのではなく、座卓の前であぐらをかき、茶わんと箸を使って食べている。昔の日本の食事風景に似ている。私は、新モンゴル小中高の年配の教員が、昔の教室を再現した授業を見たことがある。そこでも座卓のような机を使っており、椅子はなかった。
 
 生々しい写真もある。何もない荒野に遺体が横たわっているだけの風葬の写真だ。現代では、土葬か火葬なので、とても貴重な写真だと思う。

 昔の人々が、どのような服装をしていたのかを示す写真は数多い。特に女性の頭飾りなど装飾品を紹介している。乳しぼり、牛ふん拾い、移動の様子など遊牧関係の写真も多い。

 モンゴル国では、ウランバートルなど都市に定住する人が多く、昔ながらの遊牧生活は急速に失われつつある。「ウランバートルはモンゴルではない」と言われたりするほどだ。南モンゴル(内モンゴル)でも遊牧民の定住化は進んでいる。それだけに、昔の写真は、「なつかしい」というだけでなく、記録としての意味は大きい。

▽森修 もり・しゅう

1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

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まいど、編集長のタケシです。

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

ご存じの通り、昨年はたいへんな一年となりました。
世界ではコロナウイルスの感染で、大勢の人がなくなりました。
そして、モンゴル圏では内モンゴルでモンゴル語教育の縮小、廃止が行われ、モンゴル文化の存続に直結する大きな悲劇となりました。

そんな、いろいろあったわけですが、今年は早く平和が戻るように願います。

Amazon売り上げベスト10


毎年恒例の、当ブログ経由で買われた本ベスト10を紹介したいと思います。

今回は、売れ筋ランキング形式で紹介します。なので、モンゴルとまったく関係ない本もありますのでご了承ください。

1位「鬼滅の刃」

漫画
「鬼滅の刃」がトップの座を取りました。
当ブログで紹介したことはないが、リンクを踏んでから、買われたようです。

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
吾峠呼世晴
集英社
2016-06-17



2位「低金利時代の不動産投資で成功する人、失敗する人

景気が悪いと牛丼やユニクロなどの売上は伸びます。
そして、金持ちは金や不動産に金を回します。
まぁ、不動産投資は王道ですよね。




3位「文明の生態史観」

以外だったかもしれないが、内モンゴルの急変(モンゴル語教育禁止)背景にあったと思われます。一時期、下記の記事がアクセス急上昇してたので、その時に買われたようです。

梅棹忠夫『文明の生態史観』から論考する草原の地の奪い合いについて

文明の生態史観 (中公文庫)
梅棹 忠夫
中央公論新社
1998-01-18


位「中古ワンルーム2戸からはじめる家賃40万円稼ぐ黄金の法則

そして、再び不動産関連の本がランクインしました。
コロナで住む家を手放す人もいる中、儲かっている人はリスク分散のために不動産を買います。
日本は少子化、高齢化がまじまじやばいから、不動産投資やるなら東京、駅から徒歩で7分以内、ワンルームマンションがオススメです。


5位「モンゴルを知るための65章



6位「草はらに葬られた記憶

草はらに葬られた記憶「日本特務」
ミンガド・ボラグ
関西学院大学出版会
2019-10-10


7位「方言が明かす日本語の歴史



8位「世界史の誕生 ――モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫)



9位「内モンゴルを知るための60章

内モンゴルを知るための60章 (エリア・スタディーズ)
ボルジギン ブレンサイン
明石書店
2015-08-01


10位「墓標なき草原――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(上)










以上、昨年売られた本ベスト10でした。

こういうデータを見える化することによって、その年の人々の関心だったり、時代の背景を表したりしていると思います。

今年は、どんな一年になるか、どんな一年にして行くか、楽しみですね。
それでは、引き続きよろしくお願いします。

ノモンハンの地平
【写真】細川呉港著「ノモンハンの地平」(光人社NF文庫)

 細川呉港著「ノモンハンの地平―草原紀行 ホロンバイルの過去と現在」(光人社NF文庫)を読んだ。
 満洲(現在の中国東北部)の北西、ロシアやモンゴルとの国境地帯に広がるホロンバイル大草原を訪ねた紀行文である。現代の日本人があまり行かない地域なので、探検記のようでもある。同時に1945年8月のソ連軍侵攻で玉砕したハイラルの地下要塞や1939年のノモンハン事件(モンゴルではハルハ川戦争)の舞台を訪ねて、シベリア抑留につながる悲惨な歴史を振り返った戦争論にもなっている。
 この著者には「草原のラーゲリ」(文藝春秋)という大著がある。ホロンバイルの遊牧民の子として生まれたソヨルジャブというダゴール・モンゴル人の数奇な運命を描いた本だ。ソヨルジャブさんは、チチハルの師範学校で日本語を学び、さらに日本人の学校ハルピン学院を卒業して、ハイラルの省公署(県庁)職員のときに満洲国崩壊を経験する。その後、ウランバートル、フフホト、青海省のラーゲリ(収容所)生活を続け、その間、中国の文化大革命の荒波にもまれる…。
 ソヨルジャブさんと同じようにホロンバイルで子ども時代を送ったブリヤート・モンゴル人のツェベクマさんに鯉渕信一さんが聞き書きした「星の草原に帰らん」(NHK出版)も、とても興味深い。
 ツェベクマさんは、司馬遼太郎の通訳を務めたことで知られるが、彼女もソヨルジャブさん同様、日本式教育の学校で日本語を覚えた。「星の草原に帰らん」では、ホロンバイルの草原を裸足で駆け回り、足がこごえると、真新しい牛の排せつ物に足を突っ込んで暖を取る野性味あふれる少女時代が生き生きと描かれている。
 堺六郎著「シベリアのラーゲリを逃れて―ホロンバイルからシベリアへ」(筑摩書房)も、ホロンバイルについての記述が私の心に残る。堺さんは、ハイラル特務機関ウルシュン連絡所員として、酒や雑貨を販売しながら現地情勢を探る任務に当たっていたが、突然のソ連参戦でシベリア送りとなる。この本では、自らの体験を、ホロンバイルは「天国」、シベリアは「地獄」と対照的なタッチで描いている。
 ホロンバイルは、かつて多くの日本人が活躍し、日本に親しんだモンゴル人も多かった地域である。その歴史は、しっかりと記憶にとどめなければならないと私は考える。「ノモンハンの地平」で著者は「満洲国を、ただ侵略者として日本の歴史のなかで一刀両断に切り捨ててしまうことは、あまりにも浅薄にすぎる」と書いている。また「満洲国を『偽満洲国』と呼び歴史の中から抹殺しようとするに至っては論外である」とも指摘して、政治的プロパガンダで歴史を語る中国の姿勢を批判している。
 
▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。

モンゴルの親族組織と政治祭祀

まいど、編集長のタケシです。
新書「モンゴルの親族組織と政治祭祀」(楊海英 著)のご紹介です。

目次
目次
内容

目次


まえがき

第1章 モンゴルの親族組織に関する記録と研究

  1 モンゴル人の記録と記憶
  2 モンゴルの親族組織に関する人類学的研究
  3 日本のモンゴル研究のなかのオボク解釈
  4 先行研究の総括と本書の目的

第2章 オルドス万戸とオルドス地域

  1 モンゴルのなかのオルドス万戸
  2 オルドス地域の歴史
  3 清朝時代の旗制度とオボクの編成
  4 オルドス・モンゴル人の生活

第3章 オボク・ヤス構造

  1 モンゴル人自身のオボクとヤスに対する認識
  2 ヤスの階層性と象徴性
  3 ヤス・タイ・オボク
  4 ヤス・ウグイ・オボク
  5 ヤスの形成と消失に関する仮説

第4章 チンギス・ハーン祭祀とオボク・ヤス集団

  1 チンギス・ハーンの祭殿「八白宮」
  2 祭祀者ダルハトのオボクとヤス
  3 八白宮の祭祀に貫徹された系統理念

第5 章 オボク集団の祭祀

  1 旗ダルハトのオボクとヤス
  2 「旗ダルハト」が主宰する「白宮」
  3 オボク集団の祭祀
  4 オルドス祭祀の全体的調和性と政治的統合性

第6 章 オボク・ヤス構造とその機能の歴史的変容

  1 遊牧社会における「オボク・ヤス構造」
  2 「八白宮」祭祀の統合機能
  3 ヤスとオボクの現状

あとがき

補記――オルドスとウズベキスタン

引用文献

索引

内容


「ヤスをもつオボクは生き残る、ヤスのないオボクはつぶれる」
12代も先祖を遡ることができた血縁の国モンゴル。だが、清朝支配や文化大革命によりオボク(親族組織)は半壊、ヤスも忘却されつつある。本書はヤスのもつ社会的機能と象徴的意義に注目、モンゴル人の政治原理と社会構造を明らかにした大著。

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