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島村一平(国立民族学博物館)
青土社 ||歴史/ドキュメント:ヒップホップ・モンゴリア (http://seidosha.co.jp)

なぜモンゴル?

 私の専門は文化人類学で、モンゴルのシャーマニズムの研究をしてきた。シャーマニズムを研究してきた私がなぜヒップホップに興味を持ったか。今回はその経緯を少しお話したい。
 私は大学卒業後、東京でテレビの制作会社で勤めていた。そんな私がモンゴルに興味を持つきっかけは、1994年8月のことである。ドキュメンタリー番組の取材で初めてモンゴルの地を踏んだのがはじまりだ。番組は、ジャズミュージシャンの坂田明がモンゴル・中央アジアを旅しながら現地の民族音楽の奏者とセッションをするという内容のものだった。そのスタッフの一人に私は選ばれたのだった。

そのモンゴルでのロケ中のことだ。一日のロケが終了して、大草原で満点の星を眺めていた。そのとき、なぜか、ひょっとして俺は前世、この国で生まれたのではないだろうか」という想念が浮かんだ。今、考えると単なる妄想だったのかもしれないが、日本に帰国してもその感覚は残っていた。早くモンゴルへ帰りたかったのである。そして番組のオンエア後、会社に辞表を出した。

そして1995年夏、モンゴルに留学をした。最初は首都ウランバートルで語学を学びながら、ドキュメンタリーを撮ろうと思っていた。そんな中、シャーマニズムの情報を小耳にはさんだ。モンゴル北部のロシア国境に近い辺境に住むダルハド族(人)の間では、森の中で古代から連綿とつづくシャーマンの儀礼を行っているのだという。“神秘的な古代の呪術師”のイメージは、私を虜にするのに十分だった。1年が過ぎ、興味に誘われるがまま、大学院を受験しモンゴル国立大学の大学院に進学した。専攻は民族学である。そこで多くの友人が出来たし、恋もした。

ウランバートルという街

90年代半ばのウランバートルは、人口60万人ほどの静かな町だった。その後人口は、25年ほどの間に2倍以上に膨れ上がったが、当時はこぢんまりとしていた。そして街路樹の少ない荒涼とした町だった。町の中心部を占める官庁や大学、劇場や銀行といった大きな建物はロシア風建築(ソ連風)である。それを囲むかのように日本の昭和30-40年代に造られた公団住宅に似た無機質な団地群が広がっている。

正直、アジア的な風情があまり感じられない。商店の看板もすべてロシアのキリル文字。しかも少し前まで社会主義だったので、どこへ行ってもスーパーやドラッグストアの看板には「食料品店」、「薬局」としか書かれていない。おまけに看板のレタリングまで同じである。まるで初期のファミコンの解像度の低いドラクエの街の中を歩く気分になる。これは、少し前まで店という店はすべて国営商店だったからだ。こうした商店は、私の留学した95年当時はすでに民営化してはいた。ただ店に「AEON」「マツモトキヨシ」といった固有名をつけるという発想がまだなかったのである。
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▲撮影 島村一平

また建物の外壁の塗装がひび割れや剥がれが目立ち、道路のマンホールは空いたまんま。マンホールの中はかつてマンホール・チルドレンと呼ばれたストリート・チルドレンたちの世界だ。どこかしら廃墟感のある町、それがウランバートルだった。ただし関西のとある巨大な公団団地で育った私にとって、こうした無機質な団地の世界は、地元(フッド)を感じるほど居心地がよかった。団地の子は、長じても団地の風景にノスタルジーを抱いてしまうのである。それに団地の住民にある種の連帯感があるのはモンゴルも同じだった。ロシアから来た留学生たちは、この町はまるでロシアの地方都市みたいだ、とよく言っていた。とにかくウランバートルは「モンゴルらしさ」が感じられない町であることは確かだった。団地群の周囲に広がるゲル地区を除けば、の話なのであるが。

草原をフィールドワーク

一方、ひとたびウランバートルを出ると緑の大草原が広がっている。そこは悠久の昔から変わらぬであろう(実際は違うのだが)、草原に白い天幕(ゲル)が浮かぶ遊牧民たちの世界だった。民族衣装に身を包んだ遊牧民たちが馬に乗って羊を放牧していた。夏に当時、ウランバートルで暮らす日本人たちの間では「ウランバートルはモンゴルではない。本物のモンゴルは草原にある」という語りがよくなされていた。

そんなアドバイスを待たずとも、草原の遊牧世界というエキゾチズムの誘惑に抗えなかった。そこで私は調査対象として、ウランバートルの団地に居心地よさを感じながらも、結果的に草原や森での「冒険」を選んだ。まずは北の辺境、フブスグル県でダルハドのシャーマニズムに関するフィールドワークを始めることにしたのである。そしてモンゴルの大学院で民族学の修士号をとって、帰国したのは1998年の12月。3年半のモンゴル暮らしだった。

そして1999年、大阪の国立民族学博物館に併設された総合研究大学院大学の博士課程に入学する。テーマは、迷わずシャーマニズム研究を選んだ。2000年4月、助成金を得てモンゴルに渡ると本格的なフィールドワークを開始した。1年間、ウランバートルを基地にして600km離れたシャーマニズム文化が色濃いドルノド県の調査地で1-2ヶ月滞在して調査をしてはウランバートルに戻る。ウランバートルでは、1ヶ月かけて草原で得た調査データを整理し、調査計画を練り直し、またドルノド県へと調査へと向かう。これを数回、繰り返していく。結果的に私のモンゴル滞在は、留学の3年半と合わせると6年に及んだ。そして街と草原の往還を繰り返していく中で、奇妙なことに気がついた。

ヒップホップの勃興

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▲撮影 島村一平 

2000年当時、ウランバートルではヒップホップが爆発的に流行っていた。ラジオをつければ、英語のヒップホップに混ざってモンゴル語のヒップホップがいつも流れていた。中には、アメリカのヒップホップを彷彿とさせるようなビートもあったが、小気味よくモンゴル語で頭韻を踏んでいくスタイルは確かにモンゴル・オリジナルだった。

ところが、ひとたびドルノド県に戻ると、草原でシャーマンたちがシャーマンドラム(革張りの手太鼓)を打ち鳴らしながら民謡調の祈祷歌を歌っている。やはり悔しいくらい韻を踏みまくっている。草原でシャーマニズムの祈祷歌、街に帰るとヒップホップ。つまり草原にいても都市にいても、モンゴルの韻踏み合うサウンドスケープの中に私は全身を浸していたのだった。こうした環境は、私にとってシャーマニズムとヒップホップという全くジャンルの異なる文化実践の中に文化的連続性を想起させるに十分であった。ちなみにシャーマニズムとヒップホップの関連については、「韻の憑依性」をキーワードに本書の4章で深堀りしている。

一見するとモンゴルの草原と都市は、まるで別世界である。そしてモンゴルといえば、メディアなどで紹介されるのは、草原の遊牧民の世界が圧倒的に多い。大草原の遊牧民にモンゴル相撲に馬頭琴。それに加えてチンギス・ハーンといった具合だ。近年、学術的には都市社会への注目は高まってきたものの、メディアでウランバートルという都市を生きるモンゴル人が描き出されることは非常に少なかった。ところがいまやモンゴルの人口の半分がウランバートルに居住し、現代的な都市生活をおくっている。それに対して、われわれ日本人は、モンゴルの都市生活についていったい何を知っているのだろう。
日本で「モンゴルに留学していた」と話すと、「あの草原のパオみたいなところに住んでいたのですか」とびっくりされることが多い。多くの人が表現も含めて同じリアクションだったりする。ちなみに遊牧民の天幕は「ゲル」であって「パオ」ではない。てか、パオは「包子(パオズ)(丸い蒸餃子)」に似ているといって中国人が名づけた蔑称だし。それにウランバートルは神戸や京都なみの人口規模の大都市だって誰も知らないのか。あれだけモンゴル人の相撲取りが日本に来ていて、しかもほとんどがウランバートル出身者なのに、彼らの故郷には何も関心を示さない。そして横綱の「品格」がどうのこうのといった日本社会への同化度ばかりが話題になる。あまりに切ないではないか。

近年、ウランバートルの人々はグローバル経済に巻き込まれ、貧富の格差や環境汚染といった問題に悩まされてきた。モンゴル・ヒップホップは、こうしたグローバルな経済格差によって、世界の片隅で咲いたあだ花かもしれない。いずれによ、ウランバートルでは、ブルックリンやコンプトン、川崎や西成同様にヒップホップが社会をざわつかせている。ヒップホップ・モンゴリアを知るということは、我々の世界の「リアル」を知るということでもある。モンゴルのラッパーたちが歌い生み出す世界は、我々が今ここで生きている世界とも確実につながっているからだ。

分断されたモンゴル民族

 モンゴル・ヒップホップを理解する上でもうひとつ知っておかなくてはならないのは、モンゴル人と呼ばれる人々が民族的に分断状況にあるという事実である。いわゆるモンゴル人は人口320万人のモンゴル国以外にも中国内モンゴル自治区や・新疆ウィグル自治区・青海省にも居住している。その数は実はモンゴル国より多い500万人以上だといわれている。またロシアのバイカル湖周辺にはモンゴル系のブリヤート人(あるいはブリヤート・モンゴル人)が30万人ほど居住している。さらにロシアのカスピ海沿岸部にはモンゴル系のカルムィク人が16万人ほど暮らしている。要するに民族がロシア、モンゴル、中国の三カ国に分断されているというわけだ。

民族が分断しているという点において、モンゴルは韓国と北朝鮮、あるいはイラク・イラン・トルコなどに跨って暮らすクルド人などと似ているかもしれない。とりわけ故郷を喪失した人々のことをディアスポラという。もともとはユダヤ人に対して使われた言葉だが、モンゴル人もディアスポラだといってよい。
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▲写真提供 TOONOT Record 

近年、モンゴル人たちも、国境を越えてインターネットを通じてヒップホップで連帯をしはじめている。その状況は、インド出身のアメリカの文化人類学者アルジュン・アパデュライが唱えた「ディアスポラの公共圏」が形成されているといってもいいだろう。ただし国境で分断された「モンゴル人」たちの状況は一筋縄ではいかない。例えば、中国領内のモンゴル人たちの「モンゴル国」に対する感情は複雑である。中国の支配下にあって唯一の民族の独立国であるモンゴル国に憧れに近い気持ちを抱いている。ところがモンゴル国の人々は、「内モンゴル人」のことを「中国化したモンゴル人」あるいは単純に中国人とみなしており、それを内モンゴル人自身もよく知っている。その板挟みの切ない気持ちや抑圧的な漢人たちへの怒りを内モンゴルのラッパーたちは、音楽に込めて歌っている。

ロシアのブリヤート人たちは、バイカル湖周辺に住むモンゴル語系の言語を話す民族だ。17世紀初頭に西から毛皮や地下資源を求めてやってきたロシア人と半世紀以上に及ぶ戦いを挑んだ誇り高き人々である。しかし17世紀末、戦いに敗れ帝政ロシアの臣民となるが、文化的には、言語のほかに牧畜、チベット仏教やシャーマニズムといったモンゴルと共有する文化をもっている。しかし20世紀以降、自分たちはソ連によって文明化・近代化された結果、モンゴルより高い文化水準を持つ固有の民族となった、と考えるようになった。その一方で現在もロシア人による支配を快く思っていない人が多い。とまれ、中国やロシアにおける「少数民族」としてのモンゴル人の置かれている立場は厳しい。
こうした内モンゴルの置かれた状況をケンブリッジ大学の社会人類学者オラディン・ボラグは、「故郷にいながらのディアスポラ(diaspora in home)」と形容した。故郷に住み続けているが主権を喪失してしまっている。そしてモンゴル国に理想の故郷増を見出す。そんな彼らの心情を見事に言い当てた言葉である。ちなみに彼自身も内モンゴル出身で現在は英国籍のディアスポラでもある。こうした矛盾をはらみながらもヒップホップを通じた公共圏が築かれつつ様子は本書の7章で深く扱っている。

以上、本書の一部を抜粋しながら、桜井編集長の質問に答えて見た。本書を通じて、グローバルな世界に置かれたモンゴル人の状況が少しでも伝わるならば、幸いだ。本書は、実際のモンゴル・ヒップホップが聞けるようにYOUTUBEのリンクがたくさん貼ってある。ぜひ、本を通じて音楽も聴いてもらえればうれしい。今までのモンゴルイメージとは異なるクールなモンゴルがそこにあるはずだ。

国立民族学博物館・学術資源研究開発センター・准教授。文化人類学・モンゴル研究専攻。博士(文学)。
1969年愛媛県生まれ、兵庫県西宮市育ち。1993年早稲田大学法学部を卒業後、ドキュメンタリー番組制作会社に就職。取材で訪れたモンゴルに魅了され制作会社を退社、モンゴルへ留学する。1998年モンゴル国立大学大学院修士課程修了。モンゴルにはのべ6年滞在した。2003年総合研究大学院大学博士後期課程単位取得退学。国立民族学博物館講師(機関研究員)・滋賀県立大学人間文化学部准教授を経て現職。2013年度日本学術振興会賞、地域研究コンソーシアム賞、2014年度大同生命地域研究奨励賞をそれぞれ受賞。

ヒップホップ・モンゴリア
島村 一平
青土社
2021-02-13