【写真説明】なぜ日本の大学を目指したのか、「アンドグローバル」で何をしたいか、若者たちに語りかけるホスエルディンさん=2018年9月3日、新モンゴル高専の入学式
日本人のように時間を守り、誠実な人になりなさい―。一橋大商学部と大学院で計6年間学んだホスエルディンさんは、幼いころ、曾祖母や曾祖母の薫陶を受けた祖母から、このように言われて育った。
2012年に108歳で亡くなった曾祖母は、若いころ看護師をしており、ノモンハン事件(モンゴルではハルハ川戦争と呼ばれる)で負傷した日本兵を看護した経験があるという。
おばあちゃん子で幼いころから日本に親しみを感じていたホスエルディンさんは、母親が九州大に留学したとき、一緒に日本で暮らし、ますます日本が好きになった。帰国後、日本式教育で知られる新モンゴル高校で学び、日本政府が奨学金を支給する国費留学生として来日、一橋大生となった。
ホスエルディンさんは現在、モンゴルの金融ベンチャー企業「アンドグローバル」で働いている。彼は、自らの経験を、さまざまな機会をとらえて話している。私が冒頭の体験談を最初に聞いたのは、2011年10月、山形北ロータリークラブの国際交流フォーラムでのことだ。
昨年暮れ、彼の体験談は、ユーチューブでも公開された。こちらは日本留学経験者の勉強会「モンニチ・トゥデー」でのスピーチだ。興味のある方は探してみてください。アンドグローバルに入社したのは「モンゴルができることを世界中の人々に示したいと思った」からだという。こんなことを、流ちょうな日本語で理路整然と話している。
ノモンハン事件については、田中克彦著「ノモンハン戦争―モンゴルと満洲国」(岩波新書)に詳しく書かれている。私の今回のタイトルは同書にならった。
この戦争について、モンゴルではどのように受け止められているか、何人かのモンゴル人に聞いたことがある。あるモンゴル陸軍の元少将は、私の質問に対して「当時のモンゴルがソ連の支援を受けて日本側の侵略行為を阻止した戦争」と言った。これがモンゴル側の公式見解だと思う。
しかし、普通の市民レベルでは「ハルハ川戦争?うちの親せきのじいさんも参加したよ。でも本当は日本と戦争なんかしたくなかったそうだ」といった軽めの話になる。
ホスエルディンさんの曾祖母は、看護師として戦争に参加した。もし、日本に恨みを持っていたら、冒頭のような話にはならないのではないか。
「ノモンハン戦争」の本によると、モンゴル側の死者は237人、行方不明は32人。決して少なくはない犠牲者数だ。しかし同書は、現代史家S・バートル氏の言葉を引用しながら、「戦争直前に『「国家反逆罪』を理由に1万9895人が処刑された。ノモンハンの戦場で失った全将兵をはるかに上回る数のモンゴル人が平和な日に殺された」と紹介している。
私の質問に答えた元少将は、私や私のモンゴル仲間を何度か食事に招待してくれた人である。いつも柔和な穏やかな態度で私たちと接してくれている。私は深酔いして泊めてもらったこともある。私がノモンハン戦争についての見解を聞いたとき、将軍の顔の表情が少しきつくなった。しかし、事実関係を淡々と述べただけで、日本を非難したわけではない。モンゴルは、日本との戦争で大きな犠牲を払った。しかし、それでも、日本の悪口を言うモンゴル人に、私は出会ったことはない。
これは、韓国が日本と戦争したわけではないのに、「旭日旗は戦犯旗だ」との中傷を繰り返しているのとは大きな違いだと私は思う。
「ノモンハン戦争」の本では、あのとき日本が勝っていたら、どうなったか―についても書いている。もしかして、日本が勝ち取った領土は、日本がアメリカとの戦争に負けたことで、中国の領土にされたかもしれない。「日本軍は2万を超える、あっぱれな兵士たちの生命を捧げて、中国のためにモンゴルから領土を奪ってあげたということになる」と田中さんは書いた。モンゴルにしてみれば、日本が勝たなくてよかったということだ。
▽森修 もり・しゅう
1950年、仙台市生まれ。元河北新報記者。1998年、山形市で勤務していたとき、たまたま入ったバーでアルバイトしていたモンゴル人の留学生と出会う。以来、モンゴルの魅力に取りつかれ、2005年「モンゴルの日本式高校」、2012年「あんだいつまでも新モンゴル高校と日本」をそれぞれ自費出版。
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