こんにちは、ひでです。大変ご無沙汰しておりました。

今回、再びモンゴル帝国と今なにかと話題のロシア・クリミア半島との関連性の歴史について書きたいと思います。(少々長くなりますが、複雑な大陸の歴史ゆえ、何卒ご容赦ください・・)
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クリミアハン国の国章

1・前史
現在のロシア・ウクライナ地域にモンゴル帝国のひとつであるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)という国が建国されたのは13世紀初頭の1206年。チンジスハーンが即位しモンゴル帝国を興すにあたり、長男のジョチにアルタイ山脈方面に4個の千人隊からなるウルス(国)を与え、イルティシュ川流域に遊牧させたのがジョチ・ウルスの起源です。モンゴルをはじめ、遊牧民族には中央軍とはさんで周囲を親族の軍勢で囲んで配置する習慣があります。その際、西方を任されたのがジョチだったのです)

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ジョチ・ウルスの最大領土。
1224年頃、ジョチが父に先立って死去してしまいました。その後、次男のバトゥがジョチ家の家長となり、ジョチが亡き父に代わり、祖父チンギスハーンに命じられていた南シベリアから黒海北岸に至る諸地方の征服の任を受け継ぎました。1235年、クリルタイ(モンゴルの最高意思決定機関)での決定に従って、第2代皇帝オゴデイ・ハーンはバトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍を派遣。バトゥはロシア・東欧一帯を征服して支配下に置き、キエフルーシ(キエフ大公国),ポーランド,ハンガリーまで進撃しました。(モンゴルのルーシ侵攻、モンゴルのポーランド侵攻)1242年、バトゥはオゴデイの訃報を受けて引き返し、オゴデイの後継が決まらず紛糾するのを見て、ヴォルガ川下流に留まることを決め、サライを都とするとともに、周辺の草原地帯を諸兄弟に分封して自立政権を築きました。

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サライから発掘された陶片
その後、バトゥ・ウルスとオルダ・ウルスに左右両翼に分裂し、両王家の断絶、そしてティムールとの戦いに明け暮れ、結局これ以降、ジョチ系統の様々家系に属する王族によりサライのハン位が争奪され、争奪戦に敗れた王族が他地方でハンを称して自立し、


◎ヴォルガ中流のカザン・ハン国
◎カスピ海北岸のアストラハン・ハン国、
◎クリミア半島のクリミア・ハン国
◎首都サライを中心とするハン国正統の政権(黄金のオルド)


など(これ以外にもあるが省略)の諸勢力に分裂し、事実上ジョチ、ウルスは滅亡しました。


2・クリミア・ハン国の成立
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クリミア・タタール人
ジョチ・ウルスを引継いだ形のクリミア・ハン国ですが、1430年頃、ハージー1世ギレイというジョチ系統の血統を引く人物によって建国されました。(当時、クリミア半島にはモンゴル・テュルク連合の子孫であるイスラム教徒の住民が多く居住していた。)彼はリトアニア大公国の支持を受け、1441年頃、クリミアにおいてハン位を自称、独立を宣言しました。一般に、これをもってクリミア・ハン国の成立とみなされています。 ギレイの死後、クリミアではハンの位を巡ってギレイの息子たちの間で内紛が起こり、1475年に遂にオスマン帝国の介入を受けました。オスマン帝国は、イタリアの都市国家ジェノヴァが保有していたクリミア半島南岸の諸港湾都市を奪って自領に編入するとともに、内陸部から半島以北を支配するクリミア・ハン国を従属国としてしまいました。実に巧妙ですね。
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1600年のクリミア・ハン国
一方、オスマン帝国の支持を得て1478年にハンの座を最終的に確保したギレイの六男、メングリ1世ギレイは、オスマン帝国の保護下で勢力を蓄え、1502年にはサライを攻略、分裂後のジョチ・ウルスにおいて正統政権と目される大オルダ(ウルグ・オルダ)を滅ぼし、大オルダの併合がこの政権にジョチ・ウルスの正統な後継者としての権威をもたらす事になりました。
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メングリ1世ギレイ肖像
16世紀前半には、クリミア・ハン国はカザン・ハン国へしばしばハン位の継承者を送り出し、同じくカザンへの影響力を強めようとするモスクワ大公国と対抗関係にあり、その軍勢はモスクワを幾度も包囲し、モスクワ大公国を大いに脅かしました。後にはカザン・ハン国、アストラハン・ハン国がモスクワによって相次いで滅ぼされ、タタールの国々へのモスクワの影響力が増しますが、1551年に即位したデヴレト1世ギレイの率いるクリミア・ハン国軍は、露土戦争(一次:1568年-1570年)でオスマン帝国と連合を組み、逆襲を試みました。
その後、1571年のロシア・クリミア戦争では、ポーランド・リトアニア連合王国(西部ウクライナ)と結んでモスクワを強襲し、モスクワの町を焼き払いました(モスクワ大火 (1571年))この事件が、現在のロシア人・東部ウクライナ人と、西部ウクライナ人との軋轢の遠因かもしれません・・
1648年の東欧
1648年の東欧。ピンク色の部分がポーランド・リトアニア連合王国。ウクライナ西部が範囲にあるのが解る。
また、クリミア・ハン国のモスクワ大公国への領内侵攻により、都市や農地は焼き払われ、住民を捕虜として連れ去ったと言われています。このために、クリミアの都市の商館には商品となるロシア人やウクライナ人の奴隷で溢れかえったと言われています。 そのため、モスクワ大公国は捕虜となった人々を奴隷身分から買い戻すために多額の支出をせねばならず、また、襲撃を回避するためにジョチ・ウルスの正統継承者として貢納を課すクリミア・ハン国の要求に応えねばならない状態だったのです。

歴史とは本当に残酷、かつ複雑ですね。恐らく、このころのクリミア・ハン国の「圧政」が、後々のロシア人やウクライナ人の対モンゴル観、トルコ観、そしてイスラム観に影響を与えたことは想像に難くありません・・

ロシア、ウクライナ、クリミア・ハンの「三つ巴」の戦いの因縁は、現在のクリミア問題にも大きく反映されているかも知れません。

その後のクリミア・ハン国ですが、露土戦争(六次)後の1774年のキュチュク・カイナルジ条約によって、ロシアはクリミア・ハン国をオスマン帝国から独立させ、300年続いたオスマン帝国の保護から切り離しました。これ以降、クリミアに対するロシアの影響力は急速に深まり、ついに1783年4月8日、ロシアのエカチェリーナ2世は条約を破ってクリミア・ハン国をロシア帝国に併合しました。このクリミア・ハン国の消滅をもって、13世紀以来続いたジョチ・ウルスは完全に滅亡したとみなされる場合が多いのです。


寄稿者:ひで

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